昨日までの暑さが嘘のように涼しくなり、
折悪しく目の前で始まった工事の騒音を遮断するために
窓を閉め切っても余り気にならない。
こんなときは読書に限る。
そこでF子さんに貸して先日戻って来た
「天上の青(上・下)」(曽野綾子著・毎日新聞社刊/1990)を
読み直すことにした。
この本は数回は読み直しているのだが、
それも大分前のことなのでデティールについては
覚えていないことも多い。以前何かで曽野氏が
「この小説は<自由>をテーマにして書いた」と
語っているのを知って、もう一度読んでみたいと
思っていたのである。
曽野氏はクリスチャンなので、描かれる心性には
その影響が窺われるし、<自由>についても宗教的な
概念による希求が芯になっているように感じる。
何の宗教的な素地もない私が、それでも氏の小説の世界に
惹かれるのは、生きている限り否応なくこの世の苦しみや
悲しみに繋がれている人間が、そうした不自由の極みから
<自由>を希求したとき、必ずや何らかの助けが必要になると
思えるからである。
この小説には、連続殺人犯の「宇野富士男」という男が
登場する。世界への敵意に満ちた、世間的には「鬼畜」と
呼ばれるようなこの男を、彼の唯一の救いとなる女性
「波多雪子」がいかに選択的に受け入れていくか、その
苦悩に満ちた彼女の内的過程が描かれる。まさにそれが
彼女の<自由>への道程である。
クリスチャンの雪子が自らの選択に迷い、教会を訪ねて
相談する場面で、神父が「ウノという名前は、スペイン語でも
イタリア語でも一という意味だし、英語でもワンは人を表す。
ウノという意味には人類、人間一般という意味が内包されている。
その点でもっとも謙虚で、もっとも雄大な名前だと思っていたから、
ことにああいう犯罪を犯す人が『人間』を意味する苗字でよかった、
と僕は思うね。あの人だけが特殊じゃないんだ」と言う。
ここにも曽野氏の思想が表れていると思う。
確かに自分を振り返れば、私にも「宇野」の要素が
沢山あることに思い至る。折りしも先日からある犯罪で
逮捕された男性へのカウンセリングを引き受けている。
刑務所でのプラスティックの板越しの面談は初めてだ。
彼のなかにも私は自分を見ている。
宗教に支えられた雪子の境地に至るには程遠く、
自分の不自由さばかり痛感するが、私は私なりに
不自由な自分の心の内を余すことなく見据えることを武器に、
<自由>への茨の道に分け入っていこうと
改めて覚悟を決めたのである。
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