私の中の「死」

私の中の「死」。
久々というよりも、真正面から対峙しようとするのは初めてかも知れない。
先日のCSN主催、エンカウンターグループでの後遺症は、今週ずっと尾を引いて
いた。心身の疲れは、仕事に行くのがやっとで毎晩、早く就寝した。
ただ椅子に座り、十数名で思い思いに話すだけだったのだが・・。
さまざまな感情が渦を巻き、全員を巻きこんで良くも悪くも、かなりのパワー
で静かに脈々と吹き荒れた感覚が残った。
私にとって「死」は、いつも畏敬というより目を背けたくなるような恐怖だった。
臨床検査技師になって数年は、検体だけを扱う仕事だけで楽だった。
しかし、ベッドサイドで採血したり骨髄穿刺による血液を標本にして顕微鏡で見たり
する検査は、若い頃の自分にとって「死」を意識するに十分すぎて、日に日に神経が
すり減って行った。
小さい子供達の「死」や生きたいのに生きれない人達の「死」が身近に在った。
逃げたかった。全てのドクターに訊きたかった。「死」をどうすれば客観的に捉えら
れるのか?どうすれば「死」を乗り越えられるのか?
そんな中、立て続けに起きた若い技師の同僚、上司、身近にいた人達の死は、あまり
にも強烈で、「死」の恐怖が自分自身を悩ませた。
自分の中で、「死」に対する境界線が引けない事に、もがき苦しんだ。
周りにいる医療従事者は平然と「死」に対する線が引けている様に見えた。
悩みまくったが答えは出なかった。哲学と宗教の世界に答えを見出そうとした。
しかし私にとって納得できる答えは、無かった。そのうち家庭を持ち、生きる事に
必死で「死」からは遠ざかって行った。
人間の生死に日々関わっている看護師や医師、介護職は、「死」だけでは無く「生きる」
という事も、同じ様に対峙しているのではないだろうか?私達パラメディカルとの差は、
生身の人間と直に関わり、避けがたい現状や喜びを日常茶飯事に直視し、寄り添って生き
る事にある。
そんな環境が「死」を客観視できる要因、嫌、しなければならない要因になっている
のではないか、と最近は思う様になった。勿論それだけでは、ないだろうが。
大変な精神力と心構えが必要なのだろうと敬服する。
私は、「死」が先にあるのでは無く、「生」が先にあるのだと思いたい。
私は、「死」を追及する前に「生」を追及したい。自分の為の「生」と自分の為の「死」。
「生」を懸命に貫く事で「死」を自然に受け入れる自分で在りたい。
「死」も歓喜「生」も歓喜なんて境涯には、程遠くても、自分の人生、在るがままに、生
きて行けたらいいな、と最近は思う。
恐るべき一泊二日のエンカウンターグループだったが、疲れた分だけ、得たものも大き
いような気がする。参加する前は気が重く、終えた後は、貴重な温もりと優しさを貰った
事に感謝したい気持ちが残った。皆様お疲れ様でした!そして、有難う!
blogranking.gif
ブログランキング・にほんブログ村へ
↑ブログを読んだらクリックしてね!

カテゴリー

投稿の月