サンプラザ相談センター

②社会・経済・福祉

 7月1日付け日経新聞一面「春秋」欄に、「全国勤労青少年会館」の名があった。
愛称「サンプラザ」である。
東京中野の駅前に独特の三角形のビルが出現して50年。
その威風堂々な姿を多くの人々に印象づけてきた。
 記事には「音楽公演の会場として知られるが、本来は上京して働く若者らが孤独に悩まないための施設だった」とある。
 
 当CSNの前身である「サンプラザ相談センター」は、その目的を担う中心的な存在として1973年に創設された。記事中の「地方紙を読めるコーナーを設け、3分間無料で故郷に電話できるイベントも開いたそうだ」との著述は、開設当初の相談センターの試みのことである。その当時は、中学を卒業したばかりの少年たちが、就職のために日本全国の地方から都会へと集団でやってくるという時代であった。彼らは、故郷の家族の生活を助ける稼ぎ手であると同時に、都市部の産業を支える貴重な「金の卵」としてもてはやされ、慣れない都会での、決して楽ではない労働に勤しんだのである。

 CSNの顧問を務めてくださった元筑波大教授の木村周先生は、センターの立ち上げに尽力されたお一人であり、その当時の様子をよく話されていた。
「親元から遠く離れて働くまだ年端もいかぬ子どもたちがどうしたら少しでも慰められるか、一生懸命考えていろいろなことをやりました」。

 携わった人々の熱意を集結させて誕生したセンターは、その後時代の変遷とともに事業形態や相談内容を更新しながら目覚ましい活動を続けてきた。開設当初1,500名余りだった個人相談は5年後には2倍以上に、職業情報コーナーの利用者は、3,600名から10,000人を越えるまでになった。その後も利用者数が増加の一途を辿るなか、小泉内閣の施策方針によって2003年に突然の閉鎖を余儀なくされたのである。閉鎖年度の個人相談の利用件数は15,000人超、情報コーナーの利用者は30,000人近くに及んでいた。

 たまたまその時にスタッフとして居合わせた私たちが、バトンを繋ぐ思いで立ち上げたCSNもまた20年という長い時を歩み、常に原点として顧み続けた「サンプラザ相談センター」の象徴たる懐かしい三角ビルの建物も取り壊されるという。センターの閉鎖を惜しみ、私たちの活動を見守り支えてくださった木村先生は21年に亡くなられた。

 記事は相談センターだけでなくコンサートホールにも触れ、最後に「若者たちに居場所と夢を―。作り手たちが建物に込めた願いは、50年間生き続けたと言える。」と結んでいる。
半世紀の歴史を刻んだ一つの時代の終焉である。

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