それでも「つながる」ために

 今日は久々のNTBです。
NTBというのは、ナチュラルトラックバックのことです。
こちらとかこちらとかこちらに出てくるやつです。
 というのは、昨日のA子さんのブログで、「人間関係」というやつの
度し難さを改めてつらつら考えてしまったからです。
 人間というのは文字通り「人の間」で生きるもので、決して
たった一人では生きられない。生れ落ちてこのかた、
人の手を借りなければ生存さえも危ぶまれる生き物です。
 加えて人間には「自我」という厄介なものがあります。
肉体のみならずこの「自我」を育てていくためにも「栄養」が要る。
そしてこの「栄養」というのが「存在認承」だの「愛情」だのという、
これまた他者なくしては摂取できないような代物ばかりです。
 生まれて初めて接触する他者である「親」から、これらの「栄養」を
満足に摂取できなかったと感じると、人はその不足感を埋めるために
自己への強い執着と他者への過剰な欲求を抱きます。人間というのは
「自我」に関してはとても貪欲なので、生育環境がどのようであれ、
十分に満ち足りていると感じる人は余りいない。そこで世の中には
隙あらば他者から「栄養」を奪い取ろうとする人々が溢れているのですね。
 A子さんの先輩のように、他者を疎外することで集団のなかでの
存在感を確認しようとする人は結構います。その他にも権力に擦り寄ったり、
巧妙に威圧したり、不機嫌になったり、あるいは一生懸命良い子にして、
人に気に入られるようにして、果ては病気になったりしてまで、
「栄養」欲しさのあの手この手の応酬が飽かず繰り広げられているのが
「世の中」というものです。
 原理としては多分とても単純なんですよ。
奪い取ろうとするからなかなか奪えない、奪おうとするのをやめた途端に
必要なものは自然に満たされる。奪い取ることに汲々としている人たちは
結局は何も得られないのです。見かけだけの「愛情」や「尊敬」など
何の栄養にもならないのですから。
 それでも奪うのをやめるのは不安なんですね。
だってみんなが奪い取るために必死なんだもの。
やめてしまったら奪い取られるだけになって、私の心の穴は永遠に塞がらない!
 そんな「世の中」にはとてもじゃないけど出て行けない、という「引きこもり」
の人たちが増えるのもむべなるかなという気はしますが、でも 「引きこもり」
というのは「世の中」、引いては「人間関係」からの逃亡に他ならないと
私は思っています。「逃亡」には限界がありますからね。いつまでも
逃げ続けるわけにはいかない。だって彼らとて決して一人では生きられない。
言ってみれば誰かが彼らの食い扶持を負担しているのですから。
自分の食い扶持を自分で稼がなければならなければ、どんなに嫌でも
社会に出てそこでの「人間関係」を引き受けていくしかありません。
 サルトルは「出口なし」という戯曲で、他者の鏡に映ることを避けられぬ
人間の状況を「地獄」になぞらえました。自分の意識から決して出て行かぬ
他者。自分の力の及ばぬところで別の意識が自分を規定してくるという
絶望的な状況。それは他者の価値観で断罪されることへの不毛感を
募らせます。それでも彼はその状況を引き受け、果敢に選択的行動へと
アンガージュすることを説き、真の自由への道を示しました。
 A子さんは「とにかく自分のストレスを減らすために何か行動をとる。」
と書いています。「人間関係」がもたらすストレスフルな状況を引き受け、
自分で選び決断した行動を取ることは、まさにサルトルが提唱した道に
他なりません。それは彼女の「人間関係」へのスタンスを変えることにも
なるでしょう。 今後の行動のなかで、「奪う」ことから「つながる」ことへの
真の転換が喚起されることを願っています。
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