「連帯」と「ネットワーク」

 先日来ボーヴォワールの「他人の血」(新潮文庫)を
読んでいたら、「連帯」という言葉が随所に出てきて、
この言葉を繰り返し口にしていた若き日々をまたもや
思い出しては感慨に耽ってしまったかなりんです。
 そういえば去年の「木村周先生特別講義」のなかで、
先生も口にされ、そのときにちょっと懐かしい感じが
したのを思い出しました。今はもう殆ど聞かれることの
ない言葉になってしまいましたね。
 その代わりに昨今頻繁に耳にするようになったのが、
「ネットワーク」という言葉。我がNPOの名称にも使われて
いますが、命名をしたときの気持ちには、「人と人のつながり
を大事にする場をつくりたい」という願いがあったことが
思い出されます。
 「連帯」という言葉にはどこか硬い感じがありますが、
「ネットワーク」というと柔らかいイメージですね。「連帯」を
英語で言うと‘solidarity’です。‘solid’というのは「固体」の
ことですから、やはり‘net’の方が断然柔軟ですね。
 
 日本語のイメージでも、縦糸と横糸をしっかりと織り込んで
作り上げる「帯」は硬くて形も決まっているけれど、糸をゆるく
つなげて編む「網」は柔らかく広がりがあります。
 これってやはりつながりを生む媒体の違いでしょうか。
「連帯」の基盤には、往々にして「イデオロギー」なる観念的な
代物が介在していましたが、「ネットワーク」にはもっと心情的な
ものがあるような感じがします。
 イメージだけなら、「ネットワーク」は「連帯」よりずっと容易く
つくれそうなんですが、しかしやってみると、これがなかなか
そうはいかないのです。「イデオロギー」ってヤツは剣呑では
あるけれど、良くも悪くも単純ではっきりしていた。その点
「心情」っていうのは、どうも複雑でかなり面倒なものだったり
するんですね。60年後半に頻発した左翼セクト同士の激しい
衝突は、「イデオロギー」という衣で覆った「憎しみ」とか「怒り」
とかの感情の爆発です。いってみれば、「心情」というのは、
「優しさ」とか「悲しみ」とかの茫漠とした見掛けの陰に、硬い
「連帯」を空中分解させるような恐ろしいエネルギーさえ
孕んでいる誠に混沌としたわけのわからないものなのです。
 
 そんな曖昧で捉えどころのない「心情」なんてもので網を
作るのだから、どうにも一筋縄ではいきません。糸の太さや
強度も人それぞれだし、そのときによっても違う。だから
つながったかに見えても、ちょっとした衝撃があれば
あちこちですぐに切れる。いざ編もうとしてみると、それは
それは難しいのです。
 だから今は、とにかく形だけつながっているようにさえ
見えればいいという向きも増えているようですね。
ただそっと広げて、つながったような錯覚に浸っている
うちはそれで済むけれど、ひとたびその網で何かしようと
するとひっきりなしに綻びる。これじゃあドジョウ掬いの
ひとつも出来やしません。
 かように「ネットワーク」というのは厄介でしんどいものだ
ということを、「ネットワーク」の名を冠したこのNPOを
やってみて改めて痛感しました。考えてみればことさら
改めなくても、「人と人がつながる」なんてことがそう簡単に
出来ようはずもないのです。帯のようにがっちりと枠を
決めて、その中に糸を閉じ込めてしまうようなやり方でも
しなければ、すぐにばらけてしまいます。目的に「革命」
なんぞを標榜していれば尚更ですね。今でもこういう
やり方をしている組織もあるようですが、歴史を見れば
そういう方法がいずれ破綻することは明らかです。
どんなに大変でも、時間がかかっても、しこしこと網を
編み続けるしかありません。
 それぞれが自由に存在しながら、尚且つちょっとや
そっとでは綻びぬような関係をつくりあげるためには、
何度も何度も切れた糸をよじり直し、他者の出してくる
糸との調整をしながら、時間をかけて綻びた網を修復
していかねばなりません。途中で嫌になって投げ出す
こともあるけれど、それでもまた気を取り直して針を
とる。そうして少しずつ網は強くなっていきます。
 CSN開設以来実に7年。メンバーの一人一人がそういう
作業に取り組んできた年月でした。その苦しみと葛藤を
たっぷり吸い取って、まだまだ小さくはあるけれど、使用に
耐える強度をもった網ができつつあります。くしくも今度
皆でオープンすることになったドーナツカフェは、CSNの
「ネットワーク」の名が、単なるイメージを超えて内実を
獲得していくその過程の象徴であるような気がします。
blogranking.gif
ブログランキング・にほんブログ村へ
↑ブログを読んだらクリックしてね!

カテゴリー

投稿の月