暴力的な、頽廃

先日来、暇さえあれば「社会福祉士通信教育課程」のテキストを読み耽る日々が続いている。
畢竟何冊もの「並列読書」はできないので、買ってからずっと読まずに温存しておいた、とっておきの一冊「私の男」(桜庭一樹著・文春文庫)についに手をつけてしまった。
「福祉」という現実的世界から全く異次元の世界にワープさせてくれる、またとない絶妙なコンビネーション。私は密かに「福祉の友」と呼んでいる。
数日前の深夜のこと、長時間の「福祉づけ」にいい加減倦み疲れて、例のごとく「福祉の友」に手を伸ばし読み始めた私は、何とも衝撃的な表現に出会ってしまったのである。
目にした途端に、何かで心臓をグワッとつかまれたような、身体中に、ビビッと得体の知れない感覚が
走り、胸の奥がざわざわと音を立てるような・・・、そんな言葉。

「暴力的な、頽廃」

このところのブログでも書いたように、私は2週続けて講座を担当し、その翌日にめまいで動けなくなった。数日間の自宅安静を経て症状は治まったが、今もその残滓は身内にしつこく粘りついているような気がする。過去も何回かふいに私を襲い、身動きを奪うその症状は、まさに私の身内に渦巻く「暴力的な、頽廃」の象徴、である。
件の講座では、「共感的理解」のテーマに沿い、2講座とも同じような話をした。

・・・人間は全くその人と同じように感じたり考えたりすることはできない。従って完全に他者を理解するなどというのは幻想に過ぎない。それでも人は自分と同じように感じ、考える他者を求め、理解されることを切望してやまない。しかし皮肉なことに、切望するほどに絶望するのです・・・
・・・人は誰も皆違うのだ、と心底思い定めるのはなかなかに難しい。そういう違いを腹の底から受け容れるには相当な痛みが伴う。誰しもが差し伸べた手をはねつけられればチクショウ!、と思う。しかし人は決して自分の思うようには反応しない。思うようにならないということが、人が人たる証しなのですから・・・
・・・誰の心も自分の皮膚の内側に閉じ込められていて、その牢獄を破ることはできないということを思い知れば、その牢獄の格子の隙間から人を求めて伸ばされた手が、どれほど虚しく空をさ迷うかが分かる。それは誰もが深い『実存的な孤独』を抱えているということに他ならない。まさしくその『孤独』という一点でのみ人はつながり共感し得るのです・・・

くしくも福祉関連の講座でそんな話をしながら、「孤独」という言葉を口にしたその瞬間、凍りついたように静まり返った会場。息をのみ、目を見開いた受講生たち。多分そのとき私は、身内にわき起こる何かと戦っていて、緊迫した畳み掛けるような口調になっていたのだろう、と思う。
そのとき身内にわき起こらんとした何か、それこそが「暴力的、頽廃」であったと、後日その言葉に触れたときに電撃的に気づかされる。
それが「福祉的な心情」を語っているときに私を襲おうとした正体であったと。
そして今もなおそれは私の身内に厳然と在り続けているのだと。
(だから「小説」っていうやつはすごい!)
因みに後日送られてきた受講生の「振り返りシート」の一つに、こんな文面があった。

先生は私たちに語られるときとても真剣な目をして私たちを見て話しておられました。でも私は先生が私たちではなく、何か別のものを見ているような気がしました。先生は、大きく手を振り、身体ごと向きを変え、時折上の方を仰ぎ見て言葉を発しておられました。それで先生が、『孤独』ということに触れられたとき、とてもどきっとしました・・・
(うーん、この受講生もすごい!)

「福祉の友」はただの「友」ではなかった。2度の講座と、その後のめまいの症状を経た直後に、私の中にある「根源的な虚無」を暴き、今この瞬間にも身内から私に困難な「統合」を迫るのである。

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