シャドウ・ワーク

 もうかれこれ十数年前のこと。
私の職場の上司であった女性が、たまたま一緒になった
社員食堂で昼食をとりながら、ちょっと意地悪な笑みを
浮かべつつこんなことを言った。
「これからはね、有能な女性たちがどんどん進出してきて、
その分無能な男たちが淘汰されていくのよ」
 彼女はちょっと離れた席にチラッと目をやった。
そこには確かに年功だけで地位を得たような男たちの一群が
笑い合いながら食事をしていた。
 あれから早や幾年月。
社会は果たして彼女の言うとおりになった…のか?
有能な女性たちは、「無能な男たち」をなぎ倒して颯爽と
社会に進出しているのだろうか?
確かに昨今女性が社会で働く割合は上昇している。
だが、それは大多数の女性の望むところであったのだろうか?
 今年私が受けた社会福祉士試験。その社会学分野には
毎年様々な思想家や学者が出題される。なかには見たことも
聞いたこともない名前も多い。しかし今年はイリイチが出た。
ラッキー!私は結構興味があって本も何冊か読んでた。
 彼は「シャドウ・ワーク」を提唱したことで有名。
一昔前までは殆ど女性が担ってきた、「家事」「育児」「介護」
などの無報酬の労働のことである。イリイチはそれを「誰かが
賃労働をするために不可欠なもの」とし、「あらゆる経済活動の
陰に「自助」という名目ではびこることになるだろう」と警告している。
何故なら「世界の殆どの場所において、人間の数に見合うだけの
フォーマルな賃仕事は存在し得ないであろうことがますます明白に
なりつつあった」からである。
 彼は近年の「ジェンダー」概念を「経済社会におけるユニセックス化」
として批判したことでも知られる。それで多くのフェミニストたちから
「セクシスト」との糾弾を受けたが、彼は「ジェンダーレス化は
産業社会での中性的な経済セックスを生み出したにすぎない」と
主張した。要するに女が男化することで、男性と同じような新たな
二極化に引き裂かれ、「少数者の一層大きな特権の享受と、多数者の
一層の零落を呼び起こすだけだ」と言ったのである。
彼はユダヤ人らしくその状況を「女性は二重のゲットーに捉えられた」と
言っている。
 「有能である」とは、あくまで「産業経済的価値基準に照らして」と
いうことである。つまりは一定のパイを一切れでも多く分捕ってくる
能力のことである。そして高度に管理化されシステム化された
経済社会でパイを分捕るには、その分配を仕切っている他者から
パイを分け与えるに足ると認められなければならない。
「パイを分捕る」とは、まさに「他者の評価を獲得する」ことなのである。
 昨日ある会員さんとこんな話をした。
「今の30代以降の人たちは、決して評価がない仕事などしたがらない。
彼らは評価こそが自己の価値を証明するものだというふうに育てられた
からです。」
「ではシャドウ・ワークはパイの争奪戦から落ちこぼれた人たちが
するしかありませんね。」
 今やシャドウ・ワークは巧妙にあちこちに散りばめられている。
国が声高に叫ぶ「地域・家庭での福祉活動」は、誰かを無償あるいは
それに近い労働に縛り付けることになろう。また、少しでも条件のよい
就職にありつこうと必死な若者たちの長期化する就活、そこから脱落して
引きこもる者たちの大いなるストレス、劣悪な労働環境で低賃金の
長時間労働を強いられる労働者、今やそれらも皆シャドウ・ワークに
含まれると言えよう。
そこには密かに拡大する差別の芽が潜んでいる。
イリイチが言うように、私たちはそのことに意識的であるべきなのだ。
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