あのとき、生まれ出たもの

 1957年、日本がやっと戦後の混乱期から抜け出した頃、
私は中学生になった。中高一貫の私立の女子校だったが、
初めての社会科の授業で「自衛隊についてどう思うか」と問われて、
自分の頭で考えるということを否応なく迫られ、ものすごく
大人になったような気がしたものである。
 しばらくすると私にも人並みに親しいクラスメイトができた。
T子とOの二人である。もともと二人は家が近所で親しかったらしいが、
たまたま利用する電車の線が同じだった私が自然に仲間に入った
のである。たわいないお喋りをしながら毎日帰途を共にし、そのうち
一緒に買い物をしたり映画を観に行くようにもなった。
 そうした関係が一変したのは、夏休みが過ぎて2学期が始まって
間もなくである。教室でT子がてんかんの発作を起こして倒れたのである。
大きな音をたてて椅子ごと後ろにひっくり返ったT子は、白目をむき
口からは泡を吹いていた。まくれあがったスカートからあらわになった
太ももにはケロイドのようなやけどのあとが広がり、思わず目を背けたく
なるような凄惨な様相だった。
 T子は幼い頃から度々てんかんの発作に見舞われ、炬燵で発作を
起こしたときに中の炭火に両足を突っ込み、ひどいやけどを負ったのだと
後から母親の話で知った。その後投薬の治療でずっと治まっていた発作が
ここにきてぶり返したらしい。
思春期の身体の変調なども原因の一つだっただろう。
T子はそれから1週間くらい学校を休んだがまた元気に登校してきた。
私は発作などうそのようにけろっとして笑っているT子をみて心底ほっとした。
しかしその日、Oが私を物陰に呼んでこう告げたのである。
「私、もうT子とはつきあわないことにした。だから一緒にも帰らない」
 その時の私の気持ちは今でもありありと思い出すことができる。
驚愕、怒り、落胆、軽蔑、虚無・・・実に様々な感情が激しく胸中を駆け巡り、
一瞬私は言葉を失った。
握り締めた手がぶるぶると震えた。
罵倒して殴り倒したい思いを必死でこらえて、私は何とか態勢を立て直した。
「私は今までどおりにつきあうわ」
真っ直ぐに射抜くようにOを見つめて私が決然とこう言ったとき、
目をそらして下を向いたOの顔が歪むのを見た。
Oは醜悪だと私は思った。
 そしてこのとき何かが私の中に生まれたのである。
それは「思想」というには余りにも幼く狭量なものだったかもしれない。
しかしこのときの思いが今の私の芯になっていることに、それこそ
半世紀の余を経て今思い当たるのである。
 私とT子のつき合いは、中学を卒業するまで続いた。
T子は必死で投薬治療を続け、少しずつ発作は治まってきていた。
それでも電車の中や映画館で一緒にいるとき何回かは発作に襲われ、
その度に私は素早くT子のスカートを直し、周りの大人に救急車の
手配を頼み、家族に連絡を入れた。
 高校で進路が分かれた私たちは違うクラスになり、お互いに
新たな交友関係のなかに入っていった。T子の発作は完全には
治まっていなかったが、彼女は自らの荷を背負って生きていく力を
つけていた。幾多の傷つきや交流の体験のなかで、彼女もまた
何らかの「思想」を芽吹かせたのだ、と思う。
 今ではT子の消息も分からないが、私に「思想の芽」を生み出させた
この体験は、絶えることなく私のなかに息づいているのだと、今改めて
思うのである。
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