感情の囚人たち

 先日の日経に今年のカンヌ国際映画祭に関する記事があった。
現代人の深まる孤立を描いた作品が目立ったというなかで、
主演男優賞を受賞したデンマーク映画「狩り」は、ごく平凡な町で
一人の男が少女のついた軽い気持ちのウソから児童性愛の疑いを
かけられ、保育園を通じて瞬く間に広がった噂によって村八分に
されて孤立する物語だという。
 「中世やファシズムの時代のようなことが現代でも容易に起こる。
情緒を排した冷徹な映像がそう思わせる」と記事は書いている。
 「情報がウィルスのように素早く広がる村の小宇宙を描いた。
インターネットを通して世界は噂に満ちた小さな村となった」とは、
当映画のトマス・ヴィンターベア監督の言葉である。
 こうした状況は今世界中のどこにでもあるのだろう。
その根底にあるのは、どのように表層の社会が形を変えても
頑として変わらぬ人間の本質的な問題なのだ。渦巻く感情に
容易く呑み込まれてしまう弱さ、事の真偽を見抜けぬ愚かさ、
自分のみを守ろうとする姑息さ、大勢に迎合する臆病さ、
あらゆる弱点を懐にして私たちは生きている。
 大切なのはこうした弱さや卑小さが他者にだけではなく、
自分にもあることを自覚することだ。純粋な被害者などは
存在しない。私たちは常に被害者にもそしてまた加害者にも
なり得るのだ。一歩間違えれば私は噂に苛まれる男にもなるし、
そうでなければ男を苛む村人の一人にも容易になるであろう。
その事実を自覚せずに行う一方的な糾弾は幼く見苦しい。
 私たちはすべからく感情の囚人である。
そこから自らを解き放つ鍵は、冷徹な自己覚知にあると
私は思っている。
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