1967年の4月、私は大学を卒業して外資系の
語学レコード会社に就職した。女子4大卒業生の
就職先など教師くらいしかない時代だったから、
悪戦苦闘の就活の末やっともぐりこんだのである。
営業企画部に配属された私は、本社から送られてくる
パンフレットなどを翻訳して日本向けに作り変える仕事を
していたが、じきに現場に回されるようになった。
デパートや書店の一画を借り上げ、そこでレコードの
宣伝販売をするのである。
それはまさに私の真骨頂発揮の場となった。
瞬く間に私の受け持つ現場の売り上げは全国一位となり、
毎月のように社長賞を貰った。ある日当の社長が現場を
訪ねてきて「俺の目に狂いはなかった」と言った。どうやら
私を現場に出すのは社長じきじきの命令だったらしい。
それからは社長は頻繁に私の現場にやってくるように
なった。長身で痩せた体躯の顔色がひどく悪い人だった。
「いつも微熱があるんだ」と言い、そういう風情がセクシーで、
小娘の私にはとても大人の男に見えた。当時は随分年上に
思えたが、多分37~8才くらいだったのだろう。
社長は閉店間際に顔を見せては、私を食事やダンスに
連れ歩いた。行く先はどこも一流で、貧乏学生だった私には
ついぞ縁のなかったようなところである。
銀座での本格的フレンチのコース、赤坂の奥まった路地の料亭、
驚くほど新鮮なおおぶりのタネを握る築地の寿司、カウンターで
揚げたてを塩で頬張る天ぷら、有名人の集うようなナイトクラブ、
どれもこれもが目を見張るような幻惑的な体験だった。
「お前には才能がある」と社長はいつも私に言った。
「一流になれ」とも言った。若かった私には社長の真意は
分からなかったが、生き急いでいるような気配は感じていた。
しばらくして私が男と同棲したと知ったときは顔を歪め、
「つまらん男で人生を無駄にするな」とも言った。
その頃から私は会社にきちんと出勤しなくなった。
「つまらん男で人生を無駄にした」のである。
社長は一年後に入院した。肺がんだったらしい。
私が見舞いに行くと弱々しく笑って「とうとうお前を
育てきれなかったな」と言った。「俺が死んだら
骨をペンダントにして持っててくれよ」と冗談のように
笑いながら言うので、私も笑いながら「イヤよ、そんなの」
と返した。「まだ同棲してるのか?」と尋ねられ、「別れた」と
言うと満足そうに頷いた。病室を出て行く私に手を振りながら
「お前は自由に生きろ」と言った。
入社して二年もたたぬうちに私はこの会社を辞め、
建設会社の子会社であるレクリエーション会社に就職する。
そこで出会った女性上司にもかわいがられて、私は彼女から
男性社会を強引に切り拓いて生きる術を教わった。
大姉御のような彼女から「あんたには才能があるんだから
無駄にしちゃだめだよ」と言われるたび、社長のことを
思い出した。
彼女は若い私に大きなプロジェクトを幾つも任せ、
ぶっ倒れそうになるほど私をのめりこませた。悪意ある
中傷や嫉妬にもめげない精神力を叩き込んだ。
責任のある地位に女がつくだけで目を剥く社会に
先陣で切り込んでいった彼女は、新卒とそれ程変わらぬ
ただただ生意気で世間知らずの私を、常に矢面に
立たせることで鍛え上げた。反面彼女は私のもつ
センスを非常に大事に育ててもくれた。私は彼女のもとで
殆ど何の制約も受けずに、誠に自由に仕事をさせて
もらったのである。そして「エレガントなスタイルの内に
実に度し難い女を秘める」と彼女が称する「私流」が
つくられていったのである。
こうしてつらつらと遡れば、二度と戻れぬあの頃に
「乾杯」したいような気分になる。社長の骨は貰い損ねたけど、
その存在は確実に今の私の骨の一部になっている。
「つまらん男」で人生を無駄にしたことはその後もたびたび
あったけど、今にして思えば社長の骨をバトンにして
受け継いだかのごとき女性上司が育ててくれた「私流」は、
今も私の仕事への姿勢に生き続けている。
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