世はめっきり秋めいて、やっと一山越えた感がある今日この頃。
夏の初めに発進したこちらのプロジェクトも
早や3か月が過ぎ、昨日は通算6回目のミーティング。
プロジェクトの試案に沿って、ときに試行錯誤もありつつ、
職員さんはじめメンバーの頑張りに支えられ歩みを進めている。
私たちは、まず事例を聴き取ることから始めた。
これは、職員さんの手によって行われたのだが、かなりの
手間と時間を要して根気のいる作業となった。
まだ数例を手掛けただけだが、それでも随分いろいろなことが
分かってきた。
高齢者は時代の波とともに、現代では考えられぬ状況を生き、
人それぞれの歴史を持っている。そうした過去は彼らの勲章であり、
偉大ともいえる内容でありながら、それが現在の自分を十分支える
ものとはなっていない。「こうしてセンターに通えるのは幸せ」と
言いながら、「でも自分はもう何の役にもたたない」という
喪失感も色濃く漂う。今の自分に心からOKを出せていない。
これでは、「後悔しない死」に至る生き生きとした未来を
創り出すことは難しい。
回を重ねるにつれて、「後悔しない死」へのカギは、
「今、いかに生きるか」ということのなかにあるのだ、ということが
はっきりしてきた。当初から聴き取りのテーマは、それを通して
「現在から未来への生きるリソースを発見する」ということにあったが、
身体的にも精神的にも衰えの進む高齢者は、過去にできたことも
今はもうできないと思い込んでいる(或いは実際にできない)ことが多く、
何らかの可能性への主体的な係りを引き出すのは、容易なことでは
ないだろうと思われた。
いかに今が楽しそうに見えても、その底辺にあるのが「諦め」や
「喪失感」であれば、それは今を主体的に、能動的に生きているとは
言えない。人は自らの生をただ与えられるままに生きるのではなく、
自らが常に目標を設定し、その達成をめざして生きるとき
「生きている」という実感を持つ。私たち援助者がするべきは、
その場をつくることではないだろうか。高齢者の一人ひとりが、
過去にとらわれず、あきらめず、喪失感にうちひしがれずに、
生き生きと主体的に自らの可能性を生きることができる、そんな場を。
…というようなことを日夜考え続けていたある日、
思いがけずに私は出会った。「これだ!」というものに。
誘われて何気なく出かけて行ったコンサート。すごい!
オーチャードホールの客席で、多くの観客とともに
スタンディングオベーションをしながら、私はまるで
天啓に打たれた気分になっていた。
会場で入手したDVDを昨日のミーティングでメンバーに
観て貰った。T社長以下総じて感受性の豊かな面々のこと、
全員感涙しきりの試写会となった。大いなるヒントを得て、
さあ、これからがいよいよ本格的なスタートである。