「本物の感情」についての再考察

 昨日のブログで男Nが「本物の感情」についていろいろと考察を
巡らしていたが、今日はその補足も兼ねて、私なりの再考察を試みたい。
先週の「嗜癖」ブログに続く他メンバーからの「触発ブログ」第2弾!
(ナンチャッテ、平たく言えば「ネタもらい」だけど)
 さて、「ラケット感情」と「本物の感情」の区別を最初に示唆したのは、
かの「ホットポテト」でおなじみのファニタ・イングリッシュである。
「ラケット感情」とは、「子ども時代にその家族によって禁止されたために、
許容された代理の感情に素早くスイッチを切り替える、そのすり替えられた
感情」のことであり、「本物の感情」とは、「禁止による検閲を学習する
以前の、幼い頃に経験した感情」のこととされる。
 彼女は「本物の感情」に‘real feelings’という語を用いた(男Nも
リアルフィーリングと書いていた)が、最近では‘authentic feelings’
という語が専ら使われているらしい。確かに英語では、‘real’より
‘authentic’の方がイメージが近いんだろうね。しかし日本では、
「リアル」というと「バーチャル」」の対義語みたいに使われるから、
より実体的な感じがするし、‘authentic’という語はなじみが薄いから
イメージが湧きにくい。でもラケット感情も別に「バーチャル」ではなく、
現実に本当に感じられるわけだから、「リアル」と言えば「リアル」な
わけで、ノンネイティブの私たちにとっては、その辺りの分かりにくさが
TAのネックの一つになっている。我がTA講座にとっても、これ、越年の
課題(また年越しそう)ね。
 まあ、言葉の問題はともかくとして、本題に入ろう。
「本物の感情」とは、いかなるとき、いかなるように体験されるのか、
ということね。F・イングリッシュの言うように、それが「検閲前の
幼児期の感情」ならば、かなり原始的で身体的な感情だから、
「子ども」の自我状態の強い人なら、大人になっても感じることは
ある筈ね。但し日常の生活や社会的な対人関係のなかでは、その
感情は邪魔になる。そこで私たちは、そんな感情を感じなかった
ことにしてすり替える。その行為のベースになるのは、強い愛情欲求。
そしてその行為自体は愛されるためのA1戦略。まずは、この「すり替え」
というA1戦略が行われなければ、そこには「本物の感情」がそのまま
ある、ということになる。
 例えば男Nの場合。電話工事に纏わる一連のトラブルのなかで、
彼が感じた「怒り」には、「本物の感情」が関与していると思われる。
何故なら彼のラケット感情は「無気力」「メンドクサイ」であり、
それへのすり替えが発動すれば、脚本に陥り、行動としては、
「いやになって全て投げ出す」となるからである。だから「本物の感情」
である「怒り」はすり替えられずにそこにあったのである。
 さて、ここで一つ問題なのは、その「本物の怒り」が、そのまま
問題解決にストレートに役立った、とは言えないところである。
「本物の感情」が問題解決に役立つ機能を持つことを指摘したのは、
ジョージ・トムソンという学者であるが、F・イングリッシュは
そんなことは言っていない。あくまで「すり替えた感情」が、その人を
脚本に導き、不快な結果を招くことを指摘しているだけである。
 それでは、G・トムソンが主張したのは嘘なのか、と言えばそうでもない。
何故なら、物事を解決する行動には必ずやエネルギーが必要であり、
そのエネルギーは「本物の感情」にしか含まれていないからである。
「ラケット感情」には、問題解決に向けた行動を起こすエネルギーが
そもそも欠如しているのだ。だからF・イングリッシュが言ったように、
「ラケット感情」からは「脚本行動」しか生まれないのだ。
 それでは、「本物の感情」の持つエネルギーをそのまま表出すれば
問題は解決するのか?否である。男Nのトラブルも、彼がその怒りを
何の制御もなくぶつけていれば、多分事態は混乱し解決から遠ざかった
だろう。では、「問題解決」に至らしめたカギは何か? それは、
「本物の感情」そのものではなく、「本物の感情」の表出の仕方にある。
ということは、男Nブログの「仮説1」に近い、と言えるかもしれない。
 注意すべきは、「本物の感情」そのものに、問題解決の力があるわけでは
ないということだ。人間は「感情」「思考」「行動」のトライアングルバランスで
生きている。その人生が脚本に繰られないようにするためには、まず「感情」が
すり替えられないこと、そしてその感情を制御する「思考」が働くこと、
制御されたエネルギーによる「行動」をすること、である。「制御された感情」
が「本物の感情」なのではない。念のため「TATODAY」を読み返してみたが、
どうもその辺りが曖昧なのよね。これは同書が、「本物の感情」を提唱した
F・イングリッシュの主張と、その機能を指摘したG・トムソンの主張をただ
並べただけで、肝心の二人の主張を繋ぐ理論に言及していないからだと思う。
 然るに大切なのは、「本物の感情」そのものではなく、「本物の感情を
制御すること」である。それにより問題解決に向けた行動をとることである。
フロイトの「暴れ馬」理論で言えば、馬を檻に閉じ込めて「暴れ馬」の素質を
殺すことなく、馬を繰る強靭な手綱を編むことである。願わくば男Nには、
今回のトラブルでの体験と実感を糧に、より強靭な手綱の獲得を目指して欲しい
ものである。
 
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