今週はまたもや「依存症」と「愛着障害」にまみれている。
何故なら、弁護士さんから小菅のケースに関しての「意見書」
なるものを要求されているからである。
ケースはこれから裁判に向けて弁護士と裁判官との
打ち合わせに入るらしく、「意見書」はそのためのものだ
という。3月一杯のリミットが急に22日までと繰り上がり、
ちょっとせわしない気分なのである。
性犯罪の証人になるのは初めてではないのだが、
今回はより難しい要素がある。裁判員裁判であることと、
量刑がかなり重くなりそうなことである。そこで弁護側
としては、検察側の反論に備えて論拠のしっかりした
意見書を出したいというのである。勢い面接を担当した
こちらとしてもそれ相当の論理武装を迫られることになる。
もとより小菅での面接は「カウンセリング」と呼べるような
ものではなく、「査定面接」というのが精一杯なところである。
犯罪の様相は「嗜癖(依存症)」の色合いが濃く、その元を
辿れば「愛着」の問題がありそうなのだが、十分に辿りきれた
わけではない。それでも少ない回数と時間のなかで精一杯の
ことはやったという自負はある。「意見書」はできるだけ
隙のないものにしたいと意気込み、うっかりするとまたぞろ
持ちまえの「完璧癖」が出そうである。
現在手元にある書籍だけでは心もとないので、アシストを
してくれているT心理士に「愛着障害」関連の文献の購入を
依頼、私は私で「性依存」関連の文献を探しては片っ端から
発注したのだが、どちらも余り豊富とは言えない。それでも
来週はそれらの資料を読み漁り、今週にもまして「依存と愛着」
にまみれた日々となるだろう。
「依存症」とは「行動の悪習慣」のことであり、依存対象への
とらわれから社会生活の破たんをきたすに至るものを言う。
依存の対象はアルコールや薬物などの物質摂取、仕事や買い物
などの行為過程、恋愛や特定の人物などとの人間関係と大きく
3つに分けられる。対象に何を選ぶかは、幼児期の体験とそれに
伴う思い込みの強さによる。この思い込みを、「性依存症」研究の
第一人者である米国のパトリック・カーンズ博士は「中核信念」
と呼ぶ。
「中核信念」の最たるものは「私は元来邪悪で価値のない人間だ」
というものである。他に「誰もあるがままの私など愛してくれない」
「人に気に入られなければ欲求は決して満たされることはない」など、
どこかで聞いたことのあるような言句が並ぶ。そう…これらはTA
でいう「脚本」の基盤になる信条と見事に重なるのである。
カーンズ博士によれば、「依存症」のルーツはごく幼い頃にある
という。「中核信念」の裏には、寂しさ、絶望、不安などの感情が
張り付いている。それは私たちが幼い頃に様々な場面や環境のなかで
感じたものだ。人によってその程度は違うが、劣悪な環境のなかで
過酷な仕打ちを受けた子どもほど、その感情は強くなる。依存症者は
常に理不尽な怒りや恨みに苛まれている。彼らはこの苦しみを遮断
するために思考と感情を麻痺させる「嗜癖サイクル」をつくりあげる。
「嗜癖サイクル」は、没頭ー儀式化ー強迫性行動ー絶望、という
段階を踏む。そして、お手上げ状態ー信念体系ー思考障害という
「嗜癖システム」が循環し、強化されていくのだ。まさに先日の
TAで取り上げた「脚本装置」と同じ構造である。
う~ん、何と興味深い…とここまで書いてふと気がつくと、
まるでブログ上で「意見書」の予行演習をしているかの如き様相を
帯びてきてるではないか。知らないうちに夜も更けている。
心なしか目まいの兆候までしてきたような…おっと危ない!
つい没頭しすぎて「嗜癖サイクル」にとりこまれないように
今日はこの辺でやめておこう。
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