ネットで毎日好きなときに視聴できちゃう
放送大学院の放送授業。快調に飛ばしてそろそろ
選択した3科目とも終盤に入ってきている。
特に「臨床心理面接特論」は毎回刺激的な内容で、
楽しみに聴いている。ここのところ複数回に渡って、
ユング心理学者の大場登先生が「夢」を巡る講義を
した。大場先生の放送授業は、手元の印刷教材に
書かれている内容を大きく越えて闊達かつ豊穣、
ずっしりと聴き応えがある。
今日はその第26回「困難事例にであう」を聴いた。
今回の授業には、女性臨床家のK氏がゲスト出演
していて、大場先生のインタビューに答えるという
形で進められた。K氏はまず自身の事例などを通し、
「困難」とはどういうことか、について考えたという
ことを語った。
例えば統合失調症で妄想の世界に巻き込まれて
しまいそうなケース、重い発達障害が疑われる
ようなずっと沈黙が続くケースなどである。
そうしたケースの「困難さ」に言及したところで、
K氏は非常に印象深い問題提起をしたのである。
「私たちは、引きこもりから出ること、外に向かって
コミュニケーションを取ること、がいいことだと
過剰に思い込み過ぎていないだろうか。臨床家が
そうした価値観にとらわれ過ぎているのではないか」
というのである。そして人には「自閉する権利」
もあるのではないかと。
うーん、俄かに首肯できるようなことではない
かもしれない。しかし、余りにも確固たる正の
イメージがつきまとう価値観というのは要注意と
いうのもまた真なり、である。とかくこの世は
マジョリティーの価値観が幅をきかせ、簡単には
誰も異論を唱えられぬような物言いが跋扈する。
臨床家くらいはそういうものに疑念を差し挟んでも
いいんじゃないか、というのは説得力がある。
しかし、である。ここでまた別の疑念も湧く。
皆が一斉に「自閉する権利」を主張したらどうなるか。
その人たちを一体誰が養うのか。
今その役割を担っているのは殆どが家族である。
そしてその家族もまた追い詰められているという
ケースも実に多いのである。
勿論「自閉する権利」というのは、声高に主張される
ような類いのものではなく、臨床家の胸奥深くで密かに
確認されるようなものであろう。それは「非生産的で
後ろ向きである権利」といったような、人間の存在
そのものをぎりぎりのところで問うようなものであろう。
そしてそれはまた、現実という強固な壁の前では上げる
声もなく立ち尽くすようなものであるだろう。K氏も
「これが最終的な結論ではない」と繰り返し述べていた。
こうした存在のありようというのは、障害者のみならず、
誰しもが無意識の奥深くに潜ませているとも考えられる
のではなかろうか。自我の防御に汲々とする私たち人間
そのものが、非常に「困難な」存在であるのかもしれない、
などとも思い至るのである。
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