大場語録のご利益

 実はここ数日以前勉強した院の教科書を
再読中である。確実に迫りくる入試に備えて
などという程の目算はないのだが、本番の
アウトプットに備え、少しはインプットに
なるんじゃないかという甘い期待も幾何か。
今回も例年のように物凄い倍率らしいので、
本読んだくらいで何とかなるわけない気も
するけど、まあ、何もしないよりはまし。
 読んでいるのは「臨床心理学面接特論」。
この本、単位取得のための勉強のときも
なかなか面白く読んだのだけれど、今また
読み返してみると新たにどきりとするような
先生の言葉に出会う。
以前サッカーの監督だったオシムさんの名言を
集めた「オシム語録」というのがあったけど、
(あ、そういえば男Nのブログにもあったねえ…
懐かしい!)
今日はその向こうを張って「大場語録」と
いってみようか。
 

人間の影の世界に自分の生の心を晒しながら接していくのが心理療法である。


 
 いやあ、のっけからしびれます。
 

生涯にわたっての非常に個人的で深い関与を通してはじめてその人なりの心理療法が創出され、そのように常に創造のプロセスにある心理療法を通してこそ、個々のクライアントとの困難な仕事は何とかやり遂げられる─このような営みの中から生まれるものこそが「臨床の知」と表現することができよう。

 そしてまた…
 

心理療法の器としての「非日常の空間」とは、聖なる次元にも、そして逆の意味で常識的世間の価値基準を超えたいわゆる異端の世界、病や死の世界にも開かれた両方の意味での非日常の空間」なのである。聖と性、神と悪魔はいわば兄弟、メダルの表裏という逆説が「非日常」という言葉のなかに生きている。


 
 さらに「共感」について。
 

クライアントによって語られる世界に耳を傾けるというエネルギーを要する困難な作業にあたって、クライアントとともにあるいはクライアントにかわって「影の領域、暗い側面、魑魅魍魎の世界」に接した時のセラピスト自身の「心の動き、感覚、気持ち、感情、身体感覚」に耳を澄ます。セラピストあるいはセラピストの心という「器」はどのような感情的心理的経験をすることになるのか、それをじっくりと見つめていくことが「共感」である…即ち、クライアントの苦しさをセラピスト自身が抱えたときに感じられる気持ち、感覚に耳を傾ける営みである。セラピストはクライアントの語る言葉に耳を傾けつつ、自らの心身の奏でるさまざまな音色にも耳を澄ますのである。


 おゝ、何というポエトリーな言い回し!
 …と、こんな風にして私の「試験勉強」は
まことに亀の歩みである。
我ながらほんと、非効率的。
でもこんな言葉に触れていると、試験なんか
駄目でもいいような気がしてくるから不思議。
いやいや、今からそんなこと言ってちゃ駄目。
大場語録が役に立ちますように。
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