不安の正体

 このところ何だかリレーブログのような趣を呈してきた感がありますが、男Nのムチャぶり(?!)にお答えして、今日は「不安」について少々考察を施したいと思います。
 「不安」というのは、文字通り「心が安定しない状態」であり、それは未知な状況に対する恐れから引き起こされるものだと言えます。人間は誰しも「死」という未知なものに向かって歩いているので、そういう意味では元来「不安な存在」なのだという言い方もありますが、それは「実存的な不安」とも言うべき哲学的な命題です。誰もが「明日死ぬかもしれない」という可能性を持ちながら、「明日も今日と同じように生きるだろう」ということを暗黙の前提にしてさほど不安にも思わず生きているというのは、偉大な日常的光景です。こういう日常のなかに突如「死」という非日常性が立ち現れてくるという人生の不条理は、しかし誰しもが受け入れざるを得ないものでしょう。
 そうした「実存的不安」とは別に、もっと「現実的な不安」もありますね。例えば「明日大事な試験がある」といったような場合です。これはある程度準備して臨むことで立ち向かえるたぐいのものですが、「そんな原因もないのに何故か不安に駆られる」というのが、いわゆる「神経症的不安」というやつです。また原因以上に不安が大きく感じられる場合もこれに入ります。こういうときは必ず「どんなに準備しても大丈夫とは思えない」といった心理的状況が付随しています。
 こうして見てくると、「不安」というのは、それをどう捉えるかという前提によって「自我」への組み込み方が違ってくると言えそうですね。「腹の決め方一つ」というところでしょうか。「人生ってどっちに転んでも不安なんじゃん」という男Nの洞察は誠にその通り。「生きる」ということは常に「行動を選択する」ということで、その選択がうまくいくかどうかはどんなときも定かではないのですから。その「定かでなさ」を「とても立ち向かえないような恐ろしいもの」と捉えるか、「完全にうまくいかないかもしれないけれど、そのときはまた違ったやり方を考えよう」と思って踏み出せるかによって、不安は大きくも小さくもなります。
 人間は、大きな不条理の波に翻弄される非力でちっぽけな存在ではありますが、「私」という個の捉えうる世界は、その捉え方によってどのようにも変容すると私は思っています。「枯れ尾花」が幽霊に見えるのは、自分が「幽霊」だと思っていたいからではないでしょうか… というところでタイムリミット(もうすぐ日付が変わっちゃう!)が来てしまいました。「ブログ療法」についてはまた後日考察します。悪しからず。 

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