「戦う理由」と「生きる意味」

 男Nが応えてくれなかったからというわけではないけど、今日もW杯ネタ。早く応えてくれないとシロウト談義が止まらなくなっちゃうよ~。
 何がかなりんをしてさして詳しくもないサッカーに執着せしめているかというと、またまた日経に沢木耕太郎氏の一文が掲載されていたからなんですね。今回は題して「道を開く『戦う理由』」。おゝ、何とも興味を引く題名ではありませんか。さすがは「深夜特急」、W杯もまたさすらいのノンフィクションの趣でございます。
 沢木氏は先日の日本の試合を観戦し、そしていたく絶望するのです。なぜなら観客席にいる彼の目からも「選手たちの落胆と動揺がはっきりと見て取れた」からです。今までの日本が敗れた試合は、どれもボクシングで言えば「判定負け」風であったのに、今回は完璧「ノックアウト負け」、「それは私たちがワールドカップで初めて目撃する日本代表の無残な負け方だった」と氏は嘆いています。
 そして彼は言います。「ジーコにも問題があった。しかし、それよりさらに大きな問題は選手の側にあった」と。「私はスポーツの勝ち負けをすべて『精神力』に還元してしまう見方を好まない」と前置きしつつ「しかし、オーストラリア戦での日本の敗北の姿は、技術や体力の問題である以上に、精神的な何かの欠如であるようにも思える。」と続けています。
 その「欠如しているもの」それが「戦う理由」だと氏は言うのですね。「東欧圏やアフリカ圏のいくつかの国のように、国家や国民を『戦う理由』にすることはできないかもしれない。それなら自分自身のためでもいい。この大会を自分の悪夢としないために、いやなにより自分の限界を打ち破る契機をつかむために・・・」と。
 このあたりでちょっと「おやっ」と思い、ふっとよぎったのが「トラパ」こと「トランスパーソナル心理学」。いや似ているこの感触。以前聞いた諸富祥彦氏の講演での氏のアジテート風語り口。「若者に『何をしたいか?』と問う時代は終わった。今こそ『君は何のために生まれて来たのか?』と問わねばならない!」
 「生きる意味」とか「目的」とかを見失い、それを自分の中に探し続けて多くの若者たちが漂流する今の日本。その空気を日本代表である選手たちもまた吸って生きている。昔は正真正銘国家のために戦った若者たちがいたこの国に、今はもう「国家」という概念すらないように思えます。
 ブラジルの選手たちは、そして初出場のトーゴやアンゴラの選手たちは、やはり半分以上は「国家のために」戦うのでしょうか。韓国なんかには「国家」を背負った悲壮感さえ感じられました。そしてもはやそれが「戦う理由」にならない日本の選手たちは何を「自分のため」に見出すのでしょう。
 「そんなものなくていいじゃない」と言ったらサッカーファンに袋叩きにあいそうではあるけれど・・・。「いいじゃないの、負けても悲壮感なく軽やかにかっこよく」ではいけませんかねぇ。どだい「人間は偶然の存在である」という実存主義思想にかぶれた世代である私には「生きる意味」なんて言われてもぴんとこないのよね。まして「戦う理由」なんて・・・。どうなの男N?

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