芝居のなかの「ゲーム」

 一週間ほど前になるが、シアターコクーンで上演中の「ヴァージニアウルフなんかこわくない?」を観た。前売りは買ってなかったんだけど、「大竹しのぶ快演!」という新聞の劇評を読んで俄然観たくなり、並んで当日券を手に入れた。
 この芝居は学生時代にアトリエ公演をしたことがあり、まず懐かしい思いがあった。エリザベステーラー主演で映画化されたのも観た。テーラーが主役のマーサを10㎏も太って演ったことで当時はかなり話題になった。あれから30年も経って、この演劇が上演されるというのが不思議な感じだった。「時代は巡る」ということなんだろうか?
 確かに主演のしのぶちゃんは「快演」。登場人物は2組の夫婦だけなのだが、次から次へと偽善の暴き合いと罵り合いが息もつかさず繰り広げられる、かなりインパクトの強い芝居なのだ。夫役の段田安則、若夫婦役の稲垣吾郎、ともさかりえもなかなか好演。見応えがあった。
 今回の公演を観ての収穫はもう一つある。学生時代には見えなかったあることに気がついたことだ。それはこの劇の至る所にTA(交流分析)で言う「ゲーム」が散りばめられていること。というか、「ゲーム」で成り立っているといってもいいくらいだ。セリフの中にも「ゲーム」という言葉は何回も出てくる。折しもオールビーがこの脚本を発表した60年代には、バーンの「人生ゲーム入門」がベストセラーになっていた筈。多分、いやきっと影響を受けたにちがいないと確信した。
 「ゲーム」という概念は、TAの中でもとても興味深いものだ。それはコミュニケーションの一種なのだが、お互いに自分や相手を傷つけたり、否定感をもたらしたりするように仕向けられている。意識的なこともあるが、無意識であることも多い。自己や他者に対しての根深い否定感が根底にある者同士の間で行われる交流であるとされる。
 「ヴアージニア…」は、この「ゲーム」を意識的に仕掛け合う主人公の中年夫婦が、若い夫婦の無意識の「ゲーム」を暴き立て、自分たちのゲームに巻き込んでいくという展開になっている。「さあ、次はどんなゲームをしようか?」というセリフや「××ゲームはどうだい?」というセリフまである。これはバーンが、日常の人々の生活のなかで見られるゲーム的交流に「さあ、とっちめてやるぞこの野郎」とか「あんたのせいでこうなった」とかいう口語体のユニークな名前をつけていることとも呼応している。
 バーンの「人生ゲーム入門」という本は、当時のアメリカでは大評判になったというが、邦訳は分かりにくく余り面白い本とは言えない。加えて50~60年代のアメリカの家庭生活がモデルになっているのも、ピンと来にくい原因だろうと思う。しかし、この芝居には、そうした時代や文化の差を超えて「ゲーム」の本質を捉えられる面白さがあるように感じられた。
 今この日本で生活している私たちの周りにも、よく観察してみれば似たような「ゲーム」は沢山ある。新たに命名したいようなものも見つけられるだろう。私たちは本当に「親密な交流」を持ちたいと願いつつ、それがなかなか得難いためにその代わりとして「ゲーム」をするのだ、とバーンは言う。
 「ヴアージニア…」の主人公夫婦も、本当は労り合い、理解し合って暮らしたいと切望しているにもかかわらず、現実には罵倒し合い、他者を巻き込んでまで「ゲーム」をしてその「憎しみの絆」を確認しようとするのである。それでしかつながりようのない人間のぎりぎりの切なさを、オールビーは「ゲーム」という交流の連続を描くことで浮き彫りにしているように思える。
 ちなみにこの芝居は今月一杯上演されている。もう何日もないけど、当日券は15~20枚くらいは発売されているようだ。興味のある方、「根性で並んでやろう」という意気込みで是非どうぞ!

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