「自由でいること」・その2

 A子さんが昨日のブログで「かなりんはとても自由に見える」と書いて
いたので、改めて「本当に私は自由なんだろうか?」と自分に問いかけてみた。
そこで浮かんだ様々な思いをコメント代わりに今日のブログに書こうと思う。
ネタをくれたA子さん、ありがとう!
 A子さんぐらいの年齢の頃、私はとても不自由だったと思う。
中学高校とかなり偏った(と今は思う)左翼教育を受け、それは私の中で
その後もずっと思想的な縛りとなって尾を引いたし、過干渉な母への反発、
現実に得られなかった父性への憧れなど、生育環境からの影響も強かった。
TAの理論を借りて言えば、「存在するな」を始め強力な禁止令の数々と、
それを覆い隠すために強化された「完全であれ」のドライバーに無自覚に
縛られた日々を生きていた。膨れあがる自意識に押しつぶされそうになりながら、
私は自分のなかに湧き上がる得体のしれない欲求と悪戦苦闘していたのだった。
 「自由」を獲得するために私は自分の欲求に正直であろうとした。
他者に対する敵意をむき出しにし、返す刀で自分自身をも傷つけた。
次々に不毛な恋愛を繰り返しては引き裂かれ、激しい自己嫌悪と不全感に苦しんだ。
「自由」はどんどん私から遠ざかるようであった。
「自由」が獲得するものでも他者から阻まれているものでもないのだと知るのは
ずっと後のことである。
 私が自分の不自由さの様相を見据えることになったのは、カウンセリングを
学んだからである。そのプロセスがなければ多分私は今の私ではなかったろう。
但し今の私が本当に「自由」かということになると、胸を張って「イエス」と
答えられるわけではない。そして「自由」というものが100%輝かしく
素晴らしいとは限らないということも実感している。「不自由」であることの
良さもあり、「自由」であることの苦しさもある。それでもやはり私は今
「自由」であろうとしているし、「自由」であることを瞬間瞬間に選択している
のだと思う。
 桎梏に満ちたこの世であらゆる鎖を解き放てるなどということはないのだ、
と私は思っている。「自由」であるということは結局は自分自身との闘いなのだ。
カウンセリングは私にとって一瞬一瞬がその闘いに満ちた行為である。
実のところ正直勝ち目はないのである。真に「自由である」状態など幻想にすぎない
ということも分かってしまっているのだ。だから「勝ち目のない闘いになど
自分を賭けられない」という人はカウンセラーにはならない方がいい、と私は思う。
そんな不毛な闘いをしなくてもいい仕事はいくらでもあるのだから。
 「人に嘘をつくことなんて平気」という発言は、そうした私の思いの延長線上に
ある言葉だ。大体「嘘」と「真実」の区別などあるようでないと私は思っている。
あらゆる区別や価値観をとっぱらったところに私は立っていたい。
「善」と「悪」も「正」と「偽」もつきつめれば混沌としているではないか。
そのカオスをとことんまで辿ればそこはもう狂気の世界だ。
だから人はその恐怖から逃れようとしてカオスを排除し、「価値観」で武装する。
全てを「分かる世界」に還元しようとする。「分からない」というのは
「分けられない」ということでもある。その分けられない世界に正気のまま
自分を踏みとどまらせることができるかどうかが、言い換えれば「自由で
あれるかどうか」の境目であろう。
 私にも「価値観」もあれば「恐怖」もある。ともすれば武装したがる自分もいる。
しかしそうした自分も含めて丸ごとの自分を私は好きなのだ。
私にとって「自由であること」は目的ではない。常に私の中にある、卑小で
愚かでいやらしい自分を丸ごと抱きしめたときに感じる瞬間の儚い実感でしか
ないのである。だがその「儚い実感」こそが多分何よりも私の「生」を
支えているのである。
 
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