昨晩何人かの会員さんたちとお喋りをしていて寝るのが遅くなり、今朝は起床が9時頃になってしまった。寝不足気味のボーッとした状態で目覚めのコーヒーを飲んでいるところへ電話のベル。NPOの番号なので急いで受話器をとるといきなり「毎日新聞ですが…」という声が飛び込んできた。
何でも福岡で起きた「いじめによる中学生の自殺事件」に関して各方面からコメントを集めていると言う。痛ましい事件で気軽に喋れるようなものではない。受話器を握った手が緊張したが、その向こうで福岡からだという記者さんの質問が矢継ぎ早に繰り出される。「何故こんなことが起きるのだと思われますか?」「死のうと思い詰めたときに子どもは何らかのサインを出すものなのですか?」「親はどうしたらそれに気づくことができるのですか?」「いじめをなくすにはどうしたらいいのでしょうか?」「社会や学校に問題があると思われますか?」…。
以前岸田秀先生の研究室に通っていたとき、何か事件があるたび電話取材が入り、先生がその度「私には何も分かりません」と答えてすぐに電話を切ってしまっていたことが一瞬頭をよぎり、一見無愛想に見えながらそれが一番誠実な答えだなぁと感じたことをふと思い出した。本当はそう答えたい自分がいることをどこかで感じながら、私は寝起きの頭を懸命に切り換えて一生懸命に質問に答えていた。もどかしさと虚しさと空々しさを含んだ言葉がさらさらと砂のように受話器に落ちていく。このところ対面も含めメディアの取材が相継いでいるのだが、これはそういう場でいつも共通して感じる感覚のような気がする。
お昼頃記事の下原稿がファクスで送られてきた。「惨めな思いをして傷つけられたプライドを守りたいと願うが解決策が見当たらず、死を選んでしまうのではないか」「学校も組織である以上、いじめはなくならない。それを前提に対策を考えるべきだ」「子どもにもプライドがあり、惨めな思いを知られたくないと思う反面、誰か救ってくれる人を待っている。シグナルに気付いたら決して問いつめずに、自然体で接しながら解決策を探って欲しい」
並んでいるのは確かに今朝自分が言った言葉である。しかしこうして見ると何ともよそよそしい。かなり長い時間喋ったから、もっと他にも色々なことを言った覚えがある。記事はそれをうまく短いスペースにまとめているのだから、当然のことながら話の流れの途中にある矛盾や逡巡を隠し、細かいニュアンスは排除されていかにもさらっと読めるように仕立ててある。話された言葉は自分から発したものだが、その奥にある苦く重いわだかまりは浄水器から出る水のように除去されている。
もし自殺した生徒の家族がこれを読んだらきっと「どこかのいい気なカウンセラーがしたり顔して意味ありげなことを言っている」と腹立たしく感じることだろう。自分が反対の立場だったらきっとそうだと思う。メディアの取材に応じるとはそういうことである。それを承知で私はまたこの次もきっと取材に応じるだろう。岸田先生のようにきっぱりと拒否ができないどこか節操のない自分もまた自分らしい。自分の中にあるこういう不純さもまた私は好きなのである。
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