それぞれの一分

 今日有楽町まで「武士の一分」を観に行きました。夫が昨日行って来て「良かったぞ」と言っていたので俄然観たくなりました。さすがキムタク、期待は裏切りませんね。
 この映画で「一分」というのは、「そのために人が命を賭けて戦う理由」として描かれています。最近ではとんと聞かない言葉ですよね。辞書を引くと「その人が一人前の人間として譲ることのできない立場」とあります。そんな立場が私にあるだろうかと考えてみました。
 そうしてみるとないんですね、これが。殆どのことは「まあ、しゃあないか」と譲れてしまう感じがします。命を賭してまで自分を戦いに向けて奮い立たせるものなんて、今の世の中、ないのが当たり前なのかもしれません。「一分」が死語になる所以ですね。
 映画では、キムタクが「大儀」や「信条」のための「一分」ではなく、まさしく「人間の一分」を通そうとする姿を描いていますが、最後にはその「一分」から解き放たれ、自分にとって最も大事なものを取り戻します。言ってみれば「男の一分」に固執しないところがこの映画の後味のよさになっています。山田洋次監督らしい終わり方だなあと思いました。
 そうしてみると、このNPOを立ち上げたのは「かなりんの一分」だったかも知れず、OLA子さんが今苦闘して何とか自分に納得の行く道を踏み出そうとしているのは「A子の一分」だとも言えますね。そうそう「新米主婦mocoの一分」というのも昨日のTA講座の重要テーマでしたね。結構今の時代だって皆それなりに戦ってるのよね。
 それぞれの「一分」のために戦っているCSNのメンバーたちが、皆最後にはそこから解放されて、自分にとって最も大切なものをかち得ることを願っています。
 ところで「7万キリ番」はどなたがかち得たのかしら…?
 
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