生きる意味

 昨日男Nのブログに「生きるということは大いなる無意味です。」というコメントをつけました。今日は、この「無意味」ということについてもう少し言及しておこうかなと思います。
 「人生の意味」などというといかにも壮大かつ深遠なテーマで、よりによってこれから出かける用事を抱えた(今晩は当NPOのお助けマン、Bさんの弟君のライブなんです!)この時間のないときに書くようなことでもないとは思いつつ、男Nが「僕は何のために生きてるんだろう…」などとひとりごちているのを見ると、つい何か言いたくなっちゃうんですね。
 要するに何が言いたくなっちゃったかというと、「君は別段何かのために生きているわけじゃないよ」ということなんですね。「ひとが高尚な哲学的テーマで悩んでいるときに余計なお世話だ」という声が聞こえてきそうですが、男Nとてふとんの中でうだうだと、半分眠っているような頭でぐるぐるいじくり回しているだけみたいだし、まぁそのくらいのレベルに合わせたトラックバックと思ってくれればよろしい。
 土台人というのは無意味なことに弱いのですね。どうせやるなら意味のあることをやりたい。それで何をやるにしても血眼になって意味を求める。確かに「賽の河原」みたいな無意味なことをするのはすごく虚しい。すぐに汚れるところを掃除するなんて真っ平だし、誰も食べない料理をつくるなんてこともまずない。日々の営みには必ず「意味」があります。お父さんが毎日ラッシュにもまれて会社に行くのは「家族を養うため」だし、お母さんが我先にバーゲン品を漁るのは「少しでも安くいいものを買うため」だし、息子が受験勉強をするのは「いい学校に入り、引いてはいい会社に入るため」だし、娘がダイエットに励むのは「きれいになって男の子にもてるため」です。そう、私たちのやっていることは毎日「意味」だらけ。それもかなり明確なね。そうじゃなきゃやってられないくらい大変だってことでもあります。
 さて、それでは「生きる」ことの意味ってなんだろう…って考えた途端にぼわーっと明確さが薄れてたちまちぼやけて見えなくなってしまう。日々の営みの「意味」をいくら積み重ねても「生きる意味」にはならないのですね。もっとご大層な意味が欲しい。例えば「世のため人のため」とか、「理想と正義の実現のため」とか、まぁ今はちょっと小ぶりになって「自分のため」っていうのが流行りみたいですけど。
 それにしても何と抽象的なこと山の如しなんでしょう。ふとんにくるまってこんなことばかり考えてたら、まさしく「意味の迷路」にはまってしまう。「そんな意味のないことはおやめなさい」と私は言いたい!
 と、こんなところでもうタイムリミットです。次の機会にもう少しじっくりと考えてみたいと思います。
 
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