支配欲求

 昨日のTA(交流分析)学習講座で、「どうしても人を自分の枠にはめて思い通りに動かしたくなる」という話が出ました。「支配性」というやつですね。これは、エネルギーの強い人よく見られる傾向です。飽くなき「権力志向」の源泉には、こうした「支配欲求」があります。集団の統治に関わることになると、政治や企業での権力闘争から、家族のなかでの力関係まで、この欲求の引き起こす現象は至る所に見られますね。
 特にエネルギーが強い人に限らず、どんな人の心にもこの欲求はあると言えます。ときには金銭欲や名誉欲よりも強い。というより、金や名誉というのは、とどのつまり人を支配するためのツールとして欲求されることが多いですね。それほど「人を支配する」というのは魅力的なことなのです。どうしてそんなに魅力的なのかといえば、それが最も難しいことだからなのだろうと思います。
 人が人を100%支配できることなどまずありません。人というのは自分の思うようにならない最たるものです。そこで組織は上下関係をつくり、権力の付与を駆使して管理体制を敷き、支配の構図を作り上げます。人の行動のある一面だけはこれで何とか支配できるのですね。しかしそうした構図のないフラットな組織では、誰も自分以外の人を支配できません。そこではお互いの合意を根気よく練り上げていく地道な努力が必要になるのですが、これに耐えられる人は思いのほか少ないようですね。理想郷としてのフラットな組織をめざした「共産主義」が、人間の権力と支配の欲望にまみれて地に落ちた現実は、いかに人間が「支配」の欲求に取り付かれるものであるかを物語っているように思います。
 本当に「フラットな関係」を築くのは、一番そうありそうな「夫婦」とか「恋人」の関係でも結構難しかったりします。というか、そういう関係こそが難しいと言えるのかもしれません。なぜなら社会的に支配欲求を満足させられる人はそういないからです。自らの「支配性」を、社会的にも思い存分発揮できるのは、かなりエネルギーの高い人です。それ以外の人は皆「支配される側」に甘んじて我慢しているのですね。そこで、自分が支配できそうなパーソナルな関係にその欲求を持ち込むのです。昨今問題になっているDVなどはその一例でしょう。
 力づくで人を支配しようとするのは本当は虚しいことだと思うのですが、そう感じる大人の感性が育っていないとどうしても陥り易いところですね。家族のなかで対等な関係を持てずに、親や周囲の大人から支配されて育つと、それに対する怒りが大人になってからも子どもっぽい支配的な行動を引き起こしてしまいます。暴力的なものでなくても、「拗ねる」、「不機嫌を振りまく」、などの態度で周りの人を操作しようとすることもあります。これも「支配」の変形ですね。
 私の母はとても支配性の強い人でした。母子二人の暮らしで、おまけに母は外で働くこともなかったので、支配の対象は専ら私に集中しました。だから私は「支配ー被支配」の関係しか知らずに大人になったようなものです。自分のなかにある支配性の強さに気づいたのは随分歳を重ねてからでした。今でも時折顔を出すこの厄介な代物とは、これからも心して対峙していくしかないと思っています。
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