「流浪の民」と言えば、古くはジプシーか旅芸人、比較的記憶に
新しいところではヒッピーっていうのもありましっけ。
それに戦禍で国を追われた人々やホームレスも「流浪の民」ですよね。
そこに昨今の日本では新種が出現しているらしい。
ネットカフェを泊まり歩いて生活している人々です。
近頃メディアでも「新しいホームレスの形」として取り上げられ始めて
いますね。
私も彼らの実態を知りたいと思っていたところでした。そんな折
たまたま「ネットカフェ難民」(川崎昌平著、幻冬舎新書)という
本を見つけました。ードキュメント「最底辺生活」ーという副題が
ついている通り、著者の「難民生活」を綴った手記です。
なかなか面白くて、一気に読んでしまいました。
著者の略歴を見ると、1981年生まれの25歳(執筆当時)、
東京芸術大学大学院美術研究科修士課程先端芸術表現専攻修了という
我がNPO会員男Nに勝るとも劣らぬ華々しい学歴をお持ちの方です。
「ヒキコモリ兼ニート生活を経て、07年のある時期からネットカフェ
難民生活を開始する。」とありますが、学校を卒業したのが
06年ですから、ヒキコモリ&ニート期間に関しては我が男Nの方が
圧倒的に勝ってはおります。
まあ、そんなことに勝ってたってしゃーないじゃん、という声も
ありますが、確かにしゃーないですけど、男Nに比して著者は断然
アクティブだし、「自称・日本一前向きな25歳」とおっしゃるだけあって、
非常に自己肯定的なので、この辺り、やはり男Nの方が「正統派」と
言えましょうか。
ヒキコモリやニートに「正統派」はないだろう、という声もありますが、
それなら言い換えれば、「古典派」といったところでしょうか。
世間の荒波に飛び込むことを恐れて逃げ続け、そんな自分に
どうしても否定感をもってしまう。そして一生懸命社会復帰を
試みるが、なかなかうまくいかず、無力感と焦りに苛まれて
自己否定感を益々募らせてしまう、とこんなところが今までの
「ヒキコモリ&ニート」像だったと思います。
著者には東京近郊に実家があり、帰ろうと思えばいつでも帰れる
という環境なんですね。ずっと実家でパラサイトニートをしていても
いいのに、あえて「ネットカフェ難民」の道を選んだ、というところに
著者の主体的な「生き方の選択」というのがほの見えます。
これがまさに彼の「ニートからの旅立ち」だったのですね。
と言っても、著者は、60年代のヒッピーのように声高な主張を
しているわけでもないし、明確な思想があるわけでもない。
著者は時折絵の家庭教師をして働いており、その報酬が入った折に
漫画喫茶に泊まり、翌朝のエレベーターで一緒になった「難民」と
おぼしき一人の若い女性が放つ「生き物的な臭気」に触発されて、
「ほとんど唐突と呼んで差し支えない勢いで、新生活に身を投じる決心をした」
のです。
著者の言うとおり、その旅立ちは、「決心というほど立派なものではなく」、
「引きこもる場所を実家の六畳間からネットカフェの一畳ちょいの空間へと
変えただけ」であり、「それを変化と誇る気は毛頭なく」、「もとより変化を
求めてのことではなく」、「格差どうこうというごたくにこめられたような
反骨精神の現れでもなく」、「ただ純粋に考える環境を移してみただけの話」
なのです。「具体的な展望は欠落しており、かといって自棄のやんぱちでもなく」、
「ある必然性を持つ気まぐれ」であると著者は言っています。
それからの生活記は、著者の幅広い知識と思考力に支えられ、文章力も秀逸、
ユーモアも巧みで読ませますね。特異な経歴を持つこの著者の手記が
「ネットカフェ難民」の平均値とは思えないけれど、日々の生活状況なんかも
面白く書かれていて、「難民生活」の実際を知る手がかりともなりました。
男Nも早く手記を出さないと後輩にどんどん先越されちゃうよ。
そういえば男Nは「ダメ連」というのに出入りしていたようですね。
「ヒッピー」がふた昔前なら、「ダメ連」はひと昔前になりましょうか。
一流大学(主に東大)を出て自らを「ダメ」と名乗る連中が、毎日何も
せずに喫茶店でたむろってるっていうんで、当時は結構話題になりました。
しかし、「ヒッピー」や「ダメ連」の「古典派」若者たちと、現代派
「ネットカフェ難民」には、決定的な違いがありますね。
それは、現代派は「決して群れない」ということです。
「ヒッピー」が集団で行動し、「ダメ連」も「連」というくらいでグループを
つくっていたのに比して、「ネットカフェ難民」は決して他者と連帯しない。
まあ、なかにはカップルもいるらしいけど、基本的に彼らは一人なのです。
部屋も個室、行動も一人、友達はいない、これが平均的「難民」像らしい。
いかにも現代の「難民」ですね。
だから「ヒッピー」には確かにあり、「ダメ連」にもどこかに感じられた
「社会に向けた主張」というものが全くない。それは前述の著者の言葉にも
顕著ですね。最低限にしか社会とは関わりを持たず、「目標」とか「意味」
を排し、あくまでも「個」として在り続けようとする、それはそれでまた
新しい生き方だと思わせられるところがあります。
こういう「さすらいの形」にこそ、その時代の持つ特質が尖鋭的に現れる
のかもしれませんね。
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