「知能」は「知性」に如かず

 先日歯医者さんの待合室でパラパラと雑誌をめくっていたら、
「知性とは何か?」という記事が目にとまりました。
いわゆる「知能指数」(IQ)と知性との関係を取り上げている
らしい内容で、面白そうなのでじっくり読みたかったのですが、
名前を呼ばれてしまったので、雑誌の名前を確かめることもなく
棚に返してしまいました。
 今日は何を書こうかな、とパソコンの前でぼんやり考えていたら、
ふとその問いが頭に浮かびました。
「知性とは何か?」
 米国の認知心理学者であるハワード・ガードナーは、知能を単なる
IQだけではなく多元的なものとして、次の7つの領域に分けています。
 曰く・・・
 ①言語的知能(言葉を扱う)、 
 ②論理数学的知能(数、記号、図形を扱う)、
 ③音楽的知能(リズムと音のパターンを扱う)、
 ④身体運動的知能(身体と運動を扱う)、
 ⑤空間的知能(イメージや映像を扱う)、
 ⑥対人的知能(他人とのコミュニケーションを扱う)、
 ⑦内省的知能(自己とその精神的リアリティーという内的側面を扱う)
の7つです。
 いかにも認知心理学者らしい分類ですが、さて、それでは、「知性」が
この7つの知能の総称かというと、どうも少しはみ出るものがあるような
気がするのは私だけでしょうか?
 はみ出るのは、いわば「心性」といったようなものです。
自らの存在をトータルに感じ、それを外界に放って分析する力です。
「知性」とは、そうした「知能」と「知能」をつなぐジョイントの部分をも
含むものなのではないでしょうか?そうして一体になってこそ、「知性」は
輝き、力を持つのではないでしょうか?
 因みに私の使うタロットはちょっと特殊なもので、一枚一枚に挿話が
あるのですが、そのなかに「知性」のカードがあります。それにはこんな
挿話がついています。
 ある夕方、ラビヤという老女が彼女の小屋の前の通りで何かを捜して
いるのを見て、通りがかった人が「何を捜しているのですか?」と問うと、
ラビヤは「私は針をなくしたのです」と答えました。
そこで人々が手伝い始めるのですが、いくら捜しても見つかりません。
そこである人が彼女に「どこでそれを落としたのか正確に言ってください」
と言うと、ラビヤは「針は家の中で落としたのです」と言います。
 人々は驚き呆れて、「家の中で落としたものをどうして外で捜しているんだ?」
とラビヤに尋ねます。すると彼女は「だってここには光があるけど、家の中には
ないからよ」と答えます。
 人々は益々驚き呆れて、「いくらここに光があっても、家の中で
落としたものが見つかる筈がない。光を家の中に持っていって捜すのが
正しいやりかたですよ!」と強くラビヤに言います。
 ラビヤはそれを聞くと笑い出し、「あなたたちは小さいことには本当に
賢い人たちなのね」と言い、「あなたたちはいつになったら自分の知性を
自分の内なる生に使うつもりなの?あなた方はいつも外ばかり捜している。
それは内側でなくなったものなのに!」と続けます。
そして「自分の知性を使いなさい!」と言い残し、口もきけずに立ち尽くす
人々を後に家の中に消えていきました。
 何とも意味深な挿話ですね。
ラビヤは人々の犯す愚を自らやってみせて、実際的なことに
いくら賢くても、それは「知性」ではないいうことを示すのですね。
言い換えれば、内側の闇に光を当てる力こそ「知性」なのだということですね。
 これなどさしずめ上記のガードナーの分類では⑦の内省的知能ということ
になるのでしょうが、それだけがずば抜けて高いということはありえません。
言語的知能や論理的知能も深く関わってきますね。
自らの知能を総動員して闇のなかに潜んでいる「見えないもの」を見る。
その力が「知性」なのだと思います。
 見えないものをきちんと見るためには、見えるものをきちんと見ることが
できるという前提が必要です。今は見えるものもきちんと見ないで、やたらに
見えないものばかり追いかけるような風潮も感じますね。
 もし現代にラビヤがいたらこう言うのではないでしょうか。
 
 「いたずらに幻想に流されないために知性をみがきなさい!」
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