痛みこそ忍耐の入口

我慢と忍耐、この二つの言葉は極端に意味が異なるでもなく、
微妙なニュアンスの違いがあります。
例えば、私が転んで膝に擦り傷を負ったとします。
とても痛いです。
「痛い、いたーい」と叫んでもいいのでしょうが、
大抵は痛さを「我慢」してしまいます。
ケガをした痛さを「忍耐」していますって、おかしいです。
この似て非なる我慢と忍耐、何が違うのだろうか。
独断ですが、我慢のイメージ。
ケガをして自身では痛いとわかっているのに、
それを言いたいけど言わないようなもの。
一方、忍耐はというと、
同じくケガをして自身でも痛いとわかっているけど、
それを言わないでも済ませられること。
ケガをしたのなら痛いのは当たり前という現実的な気構えで、
対自分への決意といったら大げさでしょうが、
自主的に「こらえる」といった印象があります。
私は場合によって我慢も忍耐も必要だと思うが、
何より「痛いなら痛い」と言えることが大事だ。
言わなくても、痛さを解消するための手段を取ってもいいだろう。
痛さは自身が感じることなのだから、大いに感じればいい。
かえってそれを封じ込めようとして「大丈夫です」なんて言おうもんなら、
第三者の存在に向けて公言したことに酔っているだけで、
自身の痛みに目を向けていないだけではないだろうか。
痛みって、まるでダムに溜める水のようです。
交流分析でいう、スタンプに似ていますかね。
ダムには、過去から現在まで自身で認知した痛みといった
記憶や感情が水のように溜り、その水が溜まるのを知りつつも、
放水の仕方を知らない。
いつまでも溜めるわけにはいかず、そこを放水作業によって調整する。
でも身につけた放水作業は自己流だったり、適当だったり、
はたまた放水できずに決壊スレスレだったり。
あわてて誰かに放水方法を聞きに行くが、
うまく放水できなかったり、聞いただけで安心してしまったり、
おそるおそるやるようになったり。
こうして見かねた誰かに調整してもらうこともできるだろうが、
中には調整してもらう前に決壊して水がドーンと溢れることだってある。
もしこれが「我慢の構造」に例えられるなら、
きっと、微調整して放水できるのが忍耐という技なのかもしれない。
それには経験や心を解放するといった手腕が必要で、
何より痛みの水が溜まっていることを自分で察知する心構えが必要だ。
そしていつか、自分の手法で適宜放水するのだ。
これは、何も自身の心の中で起きるだけではない。
人との関わりを築きあげる過程でも、似たようなことが言えるだろう。
ある人の心無い言葉、卑劣な行為に心を痛めているにも関わらず、
我慢のしどうしで接して、それに気づかずにいると、
いつしかダムがドーンと決壊し、怒号のごとく水が溢れだす。
溢れ出たらダムに水こそないが、甚大な被害だけが残る。
自身に投げかけられた痛みのはずなのに、
自身の傷が残るなんて本末転倒もいいところだ。
けど痛みをしていることを知りつつも適宜放水をし、
繰り返し繰り返ししているうちに、
放水の仕方も上手になるに違いない。
もしかして忍耐というのは、我慢を積み重ねてきたからこそできるのだろう。
そして痛めた心は、忍耐へと変えていくものかもしれない。
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