この頃はしょっちゅう本旱に襲われる。
ついこの間までは社会福祉のテキストやらワークブックやら
「読まなきゃならない本」が山積みだったのに、一挙にそれが
なくなって、「読みたい本」だけ読める境遇に戻ったら、
その読みたい本の調達に一苦労だ。心の赴くまま
新刊を買いあさっていたのでは金がもたない。
かといって図書館に行くのは気が進まず、古本屋の在庫にも限りがある。
昨日は古本屋から買いこんだ本も底をつき、
I文庫からまだ読んでない本を引っ張り出してきた。
宮台真司著『絶望から出発しよう』(ウエイツ)である。
夜の11時頃から読み始めて一気に2時間ほどで読んだ。
宮台は『終わりなき日常を生きろ』(1995)以来である。
この本も2003年刊行でちょっと古いのだが、彼のアジテイトぶりは
変わっていない。『終わりなき―』が「近代の閉塞的な状況を夢とか
希望とかに囚われずに、頑張らずにまったり生きる」ことで乗り切ろう」
と提唱していたところから転じて、「ここではないどこかがあるなどという
世迷言に惑わされずにもっと深く絶望したところから出発しよう」と
なっている。
ポストモダンの議論が如何にばからしい言説で満ちているかを語り、
官僚や行政機関がどれほど現状と乖離した認識しか持っていないかを
喝破し、日本というシステムの機能不全を暴き立てる舌鋒は相変わらず
鋭くなかなか読ませる。自らが率先してロビー活動をやっているって
いうから具体例も豊富で面白い。システムチェックのために官僚エリートに
伍する市民エリートが必要なのに、NPOもNGOもその機能を果たしていない
というのもその通りだろう。
福祉の分野なんかではもっともっとやらなきゃだめよね。
終盤の「これからどうしていけばいいか」というテーマのところで、
宮台は「もっと絶望しなければだめだ」と言っている。それで雑誌に
『絶望が足りない』という連載を始める予定で(そのうち探して読んでみたいね)、
そこで取り上げる3冊の小説に言及している。その3冊というのは、
村上春樹の『海辺のカフカ』、白石一文『僕の中の壊れていない部分』
そして田口ランディーの『セブンディズ・イン・バリ』だそうだ。
ここで面白いのは、「圧倒的にだめなのが村上だ」と言っていること。
『海辺―』の主人公は「母親に捨てられた存在で、ゆえに最後に
母親的存在から存在を承認されて生きる理由を回復する」という
「クサーイ話」になっていて、宮台は「椅子から転げ落ちた」って。ハハ!
田口の『セブンディズ―』は作者の神秘主義的志向から安易に
「ここでもないどこか」が当然「ある」と持ち込まれてしまうところが
大きな欠点。
それらに比して白石の『僕の中の―』にはもっと深い絶望がある。
彼の主人公は「かけがえのなさを望む者たちのパターン化された凡庸さ」
に耐えられない。彼の小説は「一条の光さえ見えず、しかしありえない
ものを待つという痛切さが、「世界は確かにそうなっている」という
絶望を伴った深い認識を与えてくれる」と宮台は言う。
村上春樹は「ノルウェーの森」以来何冊か読んだが、最近は
とんと食指が動かない。田口ランディーも「コンセント」を読んで
興味を持ちいろいろ読んだけどいまいち。どっちもワタシ的には
ぴったりこなかった。宮台の言うとおり「ぬるい」のよね。
でも白石一文は最近立て続けに読んでる。
特に『僕の中の―』は「ぎりぎりまでねじくれた孤独感」みたいな
ものがあって、妙にはまった。ひりひりするような感触がいい。
白石の「深い絶望の世界」は私を引き付ける。
「ぬるい失望と、それを裏返したぬるい希望」に覆われた世界で
思考停止の先延ばしで日常をやり過ごしているのは何とも気持ち悪い。
しかし絶望することの何というしんどさ!
白石の小説を読むだけでもかなりしんどい。
それなのにそこから「出発」などできるのか・・・?
宮台のアジテイトについていくには体力がいる。
2003年からまた時は進み、「絶望を引き受ける」ことの困難さは
益々大きくなるばかりだ。
そして今、アジる人物は宮台以外にも沢山いる。
自分のスタンスを見失ってはいけない。
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