人には無意識というものがある。
「無意識」だから、なかなか意識はできない。
できないけれども、それはものすごく人の行動を左右する。
何故なら「無意識」は意識しなければ制御できないからである。
人は意識の中に「自己イメージ」をつくる。
「自分はこういう人間だ」というイメージである。
そこには、「こうありたい自分」や「こうでなければならない自分」も
色濃く反映する。そして、そのイメージにそぐわない要素や感情は
全て無意識に放り込んで蓋をする。
「無意識」には見たくもない嫌な自分の断片が詰まっている。
しかしそれは時に悪臭を放ち、一杯になれば中身が溢れ出す。
ぎゅうぎゅうに詰め込んで外側をコンクリートのように堅牢なもので
固めても、いつも内側から自分の平安を脅かす。「悪臭」はもとから
断たなきゃだめ、なのよね。
その無意識のなかに「脚本」(byエリック・バーン)はある。
普段はゴミに埋もれていても、何かのきっかけでひょっと顔を出す。
それはストレスフルな状況におかれて強い感情に襲われたときだ。
その感情がスイッチとなって脚本が作動する。
「脚本」の材料となっているのは、幼い頃の自己イメージだ。
「一人では何もできない無力な自分」、「愛されないことをひどく怖がる自分」
「思うようにできない外界への怒りに満ちた自分」、「強いものに怯える自分」
幼い頃は、誰しもが多かれ少なかれこんな「ダメな自分」に脅かされる。
そして「どうせ僕は愛されないんだ」とか「やっぱり自分はできないんだ」と
思うことで現実の課題に立ち向かう苦しさを回避する。
だって、A(大人の自我状態)が全然できていないんだから
そうするしかないんだよね。
「脚本」の筋書きは簡単だ。
「僕は現実的な問題を何も解決できない。あゝ何とダメな自分…」
その後の結末は、破滅か失敗か無気力か、人によって様々ではあるが、
必ず否定的なものだ。
人はやがて大人になり、Aをつくり、自己イメージも変化させる。
僕はもはや無力な子どもじゃない。
外界の理不尽さに立ち向かえる力を持っている。
たとえ愛されなくても、思うようにできなくても、それに耐える知恵と理性を備えている。
もうこんな「脚本」なんぞ必要ない。
そんなものがなくたって現実に十分対処できるさ。
人は「脚本」を捨てる、或いは捨てようとする。そして捨てたつもりになる。
ところがこれがそう簡単に煙のごとくは消えてくれない。
脚本はその人の無意識のなかにしっかり留まる。
だって無意識はそうやってできてるんだもん。
「自分のイメージする大人にそぐわないものを捨てる」ってことは、
「無意識に追いやる」ということと同意語なんだもん。
かの偉大なフロイト先生が発見しちゃった如く、人のこころの仕組みって
そういう風にできているだもん。
…とそれで、人は「脚本」を無意識のなかに持ち続ける。
そのスイッチは何かのきっかけで知らぬ間にオンになる。
作動した脚本は、人をその否定的な結末へと導く。
バーンが「気がつかなければ人は一生を脚本に繰られて送る」と言うのも
強ち大げさではない。
普段は無意識のなかに埋もれていても、事あるごとに顔を出す「脚本」。
知らぬ間に捕えられたら、始末に悪い。
だって捕らわれていることにすら気づかないんだから。
脚本の筋書き通りに行動し、筋書き通りの結末を迎え、それを繰り返すうち
脚本の補足力はどんどん強くなる。
無意識から取り出そうとしたって、余りにも色々なものが絡み合って姿も見えない。
気づきもせぬまま、もうにっちもさっちもいかなくなる。
そうならないうちに、無意識から「脚本」を取り出そう。
無意識の中身を点検し、整理して取り出しやすいようにしよう。
イモヅル式にくっついてくる感情の一つ一つもしっかり見よう。
その姿かたちを意識に引き上げよう。
そしたら捕らえられた我と我が身の状況がよく見えるようになる。
そうすれば脱出への道も開かれる。
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