真夜中のブログ・美味しい思索

 こうして真夜中にブログを書いたりしておりますと、ついあらぬ方向に筆がすべり書かずもがなのことを綴ってしまいそうです。
朝読み返してみたらとても投函できないラブレターみたいに。
「夜」のなかには何か「媚薬」のようなものが潜んでいて、夜が更けるほどその媚薬は濃密になり、冬山で旅人をたぶらかす雪女みたいに朝日とともに溶けて消えてしまうのではないかなどとつらつら考えたりしてしまうわけです。
しかし「人生」とか「死」とか「自分」とかについて思いをめぐらすには、こんな「真夜中」が最適なのではないでしょうか。
 先日の日本経済新聞「シニアがつくるこころのページ」シリーズに、哲学者の池田晶子さんが「思索が老いを美味にする」というテーマで語っていらっしゃるのを読みましたら、「内省と思索のおいしさ。肉体的快楽しか追わない人には決して分かりません」と言ってらして、まさに「我が意を得たり!」という思いがしました。
「人生なんぞについていくら考えたって腹のたしにもならん」とお思いの方、あなたは確実に損をしています。
「思索を上回る快楽はない!」とかなりんはここで断言しちゃいます。
 少なくとも思索に没頭していれば、夜中にお腹がすいて眠れずにコンビニに走る必要もない。簡単に答えの出るようなものではないから、2時間の映画のビデオのようにすぐ終わっちゃうということもない。甘美な陶酔のうちに眠りに誘われるから睡眠薬もいらない。何と良いことずくめじゃありませんか。これをものにしない手はない、とは思いません?
 しかし池田先生は「根源的な問題と取っ組み合うには体力がいるから、頭脳が柔軟なうちから考える習慣をつけておいた方がいい。」ともおっしゃっています。恐れ多くもかなりんが補足致しますと「考えるためのツールを持った方がいい。」とも言えると思います。つまり多くの偉大なる先人の考え方を吸収するということですね。
かの古代ギリシャの哲学者ソクラテスの周りには、その言葉を聞こうと常に沢山の若き学徒が集まっていたと言います。今はソクラテスの代わりを果たす本が溢れている時代ですから、その気になれば自分に合ったツールは必ず見つかると思います。
 などと長々書き綴ってしまいましたが、これもまた真夜中のなせる業なのか…?
 朝日の下で読み返すのはよそうっと。

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