「ドーハの悲劇」 光と影

ドイツファンになることを決定付けたのは90年W杯。
僕の一番のアイドルである、ローター・マテウスに率いられたチームは、
西ドイツとして最後の、統一ドイツを含めても一番最近の優勝を遂げた。
この大会は「退屈なW杯」と称されることが多い。
まだ勝利の勝ち点は2で、キーパーへのバックパスも手で扱えた。
引き分け狙いの試合が多く、1試合の平均得点も最低。
優勝した西ドイツでさえ、「退屈な王者」と酷評されることもある。
でも僕には充分に魅力的だった。
クリンスマン、ブレーメ、リトバルスキー等、個性的なタレント。
無骨な風貌の内に類稀なテクニックとメンタリティを備えた闘将マテウス。
彼等はまるで中世の騎士のようであり、「ゲルマン魂」の名のもとに、
サディスティックな強さと厳しい戦いを勝ち抜く精神力を見せつけた。
つまらないサッカーの代名詞だったのはアルゼンチン。
本調子でないマラドーナは、1試合に1回だけ決定的なパスを通し、
その1点だけであとは時間稼ぎの汚いプレーの連続。
ブラジルやイタリアなどの魅力的なチームに「ただ」勝った。
決勝まで来るに値しないチーム。
準優勝で悔し涙にくれるマラドーナを見るのは痛快だった。
もちろんこれらは当時の僕の、大いなる主観である。
日本代表はこの大会のアジア1次予選で敗れた。
弱すぎ!問題外!
その後のバルセロナオリンピックのアジア予選では劇的に敗れる。
終了間際に1点を取られて。
相手はまたもや韓国。
日本サッカーの夜明けはとてつもなく遠いように感じられた。
だが、夜明けは思ったより近く、突然だった。
92年アジアカップ広島大会。
その前のダイナスティカップで国際大会を初制覇した日本は、
ラモス瑠偉、三浦知良、柱谷哲二ら綺羅星のごとくタレントを擁し、
アジアカップ初優勝を成し遂げた。
当時の日本は勿論経済大国だが、サッカーでは新興国。
言い換えれば弱小国だった。
その日本がアジアに名を知らしめた瞬間。
突然に感じたのは僕が日本サッカーにあまり関心がなかったからで、
日本サッカーと世界のサッカーは別物とさえ考えていた。
悩み多き青春を送っていた僕は、当然のように、
そして救いを求めるように、この日本代表にのめり込んでいった。
94年W杯アメリカ大会。アジア予選。
最後の最後で出場の望みを絶たれた、あの「ドーハの悲劇」。
翌日はまるでお通夜のような気分で、青空が灰色に感じられたのを覚えている。
劇的な逆転勝ちがサッカーに限らず大好きだったわけだが、
逆転される立場のことは考えもしなかった。
PL学園に逆転された高校球児はさぞかし辛い思いをしただろう。
そんなことを考えながら、バス停で空を見上げていた。
それでもこのときの日本代表は、メンタリティの強さも含めて、
今でも僕の中では一番魅力的な代表チームである。
テクニックは現在の選手たちのほうが優れているかもしれない。
でも、
大事な試合では必ず点を取ってくれたキング・カズ、
「日本人より日本人らしい」大和魂を持った侍・ラモス、
それらの個性を強く統率した闘将・柱谷、
一人ひとりの名前を挙げ出せばキリがない、愛すべき戦士たち。
彼等は韓国にも勝利し、本大会まで本当にあと一歩のところまでいったのだ。
それでも時を同じくして、日本初のプロサッカーリーグ、
Jリーグが始まったのだから、僕はやっぱり幸せだったと思う。
現役選手としてのジーコを見ることができるなんて夢のようだった。
毎週行われるサッカーの試合。そしてテレビ中継。
少年の頃には考えられなかった、日本サッカー界の劇的な変化。
このサッカー談義は次で完結させる予定だが、
今回の締めくくりに、ドーハの悲劇の後、
ラモスがニュースステーションに出演したときのことを書いておきたい。
彼は生放送の番組で、次第に高まる興奮を抑えきれず、熱く語った。
「俺たちは感動を与えるために戦ったんじゃない!
 勝つために戦った!アメリカ行きを勝ち取るために戦った!
 その願いが叶ったら俺は代表を引退してもいいとさえ思ってたんだ!」
久米宏は彼には珍しい、でも彼らしい言葉でトークを締めくくった。
「ラモスさんは激闘で頬もこけてお疲れのようで・・・
 番組が終わったら焼肉でも食べに行きましょう。」
《続く》
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