「山月記」を越えて

  最近の相談にこんな事例がありました。
地方都市出身の30代の男性。大学を卒業後2~3年毎に転職を重ね、
いつも何か飽き足らずに仕事をするのがいやになってしまう。
最近何社目かの会社を辞めたのだが、自分が何をしたいのかが
どうしてもはっきりとつかめない。アルバイトをしながら毎日悶々として
いるうちに、段々考えることに疲れてきて、今は全く気力がなく、
何もかもが面倒くさくなってしまった。「生きていることさえ面倒くさい」。
長身の堂々としたその体躯に似つかわしくない言葉を、吐き出すように
彼は言いました。
 高校時代の彼は映画が好きで、将来は著名な映画監督になって、
ハリウッドの地を踏む自分を夢見ていたと言います。しかし大学進学時に
父親の強固な反対に会い、仕方なく経済学部に進み、就職氷河期の
真っ只中で余り意に添わぬ就職をすることになります。そして組織の
なかで命じられた仕事に追われ、唯々諾々と働く自分に段々と違和感を
覚えるようになり、「俺はここで何をしているんだろう」とふと思う瞬間が
度重なったとき、彼はその心の重さに堪えきれずに退職。未だどこかで
「ハリウッド」を引きずっている自分を苦々しく感じつつ、それに替わる
「何か」を探しあぐねる毎日。
 そうこうしているうちに 失業保険も切れ、生活に追われるようにまた
就職をする。そんなことを数回繰り返し、今はアルバイトで食いつなぐ生活。
最近は映画の仕事もそれ程やりたいのかどうか分からなくなってきた。
ただ有名になりたかっただけなのかもしれない、とも思えてくる。
「本当にやりたければどんなに苦しくても妥協せずに自分を貫けた筈だし、
何とかして作品の一本も作っているのだろうけど、自分は全くそれも
しなかった・・・」と自嘲的に語る彼の胸中には、「俺はこんなもんじゃない」
という思いと、「俺は駄目な奴だ」という思いが激しく交錯しているのでしょう。
益々混沌としてくる思考のなかで、彼はどこへも踏み出せずに立ち尽くして
いるようです。
 こんな話を聴くと、思い浮かぶのが「山月記(さんげつき)」です。
高校の国語の教科書の多くに載っている、中島敦という夭逝した
小説家によって書かれた短編小説です。有名な人気教材で、未だに
「高校生の好きな教材ベスト1」の地位を保っていると聞きます。
 この小説は、清朝の説話集「唐人説薈」中の「人虎伝」を元にした
物語で、唐の時代の隴西の李徴という男が主人公です。かつての郷里の
秀才だった彼は、狷介で自負心が高く、下級役人である自らの身分に
満足しきれずに、職について間もなく退いてしまい、詩人として名を
なそうとひたすら詩作に耽ります。しかし文名は容易に揚がらず、
生活が日を追って苦しくなり、数年後遂に貧窮に絶えず妻子の衣食の
ために地方官吏の職につきます。しかしかつての同輩が皆遥か高位に
出世して、昔「鈍物」と歯牙にもかけなかった連中の下名を拝さねば
ならぬことに堪えきれずに、公用で汝水に宿した際に発狂し、そのまま
山へ消え、行方知れずとなってしまいました。
 
 一年後、彼の旧友袁参《※略字》は旅の途中で虎となった李徴と邂逅します。
李徴は詩業への執着ゆえに人の精神や姿を失って虎に変身した己を省み、
なお執着を捨てきれぬ悲哀を友に述懐するのですが、その一節にこんな
言葉があります。
 「何故こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように
依れば、思い当ることが全然ないでもない。人間であった時、己は努めて
人との交《まじわり》を避けた。人々は己を倨傲《きょごう》だ、尊大だといった。
実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。
勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云わない。
しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を
成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に
努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも
潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。
己の珠に非ざることを惧《おそ》れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、
己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々《ろくろく》として瓦に伍することも
出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚《ざんい》とに
よって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は
誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、
この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、
友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて
了ったのだ。」
 こうして読み返してみると、難しい漢字だらけでいかにも読みにくそうな
この小説が、何故高校生の間に絶大な人気があるのかが分かるような
気がします。 私は昔私塾を開いていたことがあり、生徒達と何回もこの
「山月記」を読みましたが、その当時は今以上のバンドブームで、男の子達の
多くがミュージシャンになることに憧れ、受験勉強などそっちのけでギターを
かき鳴らしていました。このまま夢を貫きたい自分と、それには厳しすぎる
現実との間で悩み、俺は他のやつとは違うという自負心と、その自負心を
叩きのめされてしまう怖さとの間で揺れながら、彼らには既に自分が何を
選ぶかが分かっていました。どうしても「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」を
捨てきれぬ自分への苦い思いを李徴の境遇に重ね、それ故虎になって
しまった李徴の哀切極まる独白に心を捉えられるのではないでしょうか。
 
 「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」が織り成す「過剰な自意識」は、
謂わば青年期の心情の特徴でもあります。この物語の悲惨さは、李徴が
青年期を過ぎてもその自意識をずっと捨て切れなかったところにあると
私は思います。ありのままの自分を受け入れ、人を見下すことで自分を
支えることを手放し、他者との比較で自分を価値づけることの虚しさに
気づいていければ、必ずや心のなかの「猛獣」は姿を消し、自分を活かす
エネルギーの泉に変わることでしょう。冒頭の事例の青年も、そうした
成熟への道を歩んでいくことを願いつつ、今はまだ払拭しきれぬ
彼の心中の苦さとじっくりつき合おうと思っています。
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