ここ最近の心模様、
まるで自分の足にチェーンで繋がれ、かなり重い球をつけたまま、
砂の坂を上っているようだ。
重い球は否定感であり、
上るために使われるエネルギーは砂という感情に足をとられ、
そして坂の下には人生脚本の結末がある。
その結末も「どうせ人なんか」というものに加え、
いくつもの剣山が鈍く光っている。
自分は何度も何度も、この砂の坂を上った。
ポーシャ・ネルソンの5つの自叙伝みたいだけど、
時には重さに引きずられたり、
力技で頂上に辿り着きそうなところで力尽きたり、
思い急ぐがゆえにチェーンが絡まったりと、
そんなことを繰り返した。
そう、こんなことがあった。
先週のある日、
かなりん宅の「サンタ(犬)」が、CSNの事務所や研修室のある一階に何度も下りてきた。
サンタともう一匹のフウタ(犬)は、
散歩以外はほとんど二階のかなりん宅にいる。
いつもサンタとフウタは散歩のために、
二階から階段を使うのだけど、
フウタはタッタカ上り下りするのに対し、
サンタは年齢のせいかいつも必死というか、
やっとこさ下りては上る。
でもサンタは階段の途中で自分の顔を見ると、ドドドっと駆け下り寄ってきて、あいさつをしてくれる。
そんなサンタが何を察してかその日に限って、
何度も一階に来てくれた。自分が帰るときも、途中まで下りてきていた。
何か伝えたかったのだろうね。
言葉こそないけど、
サンタは「ボクは見守ることができるんだ。ボクは階段の上り下りは得意じゃないけど、それがボクなんだ。だからちゃんと来いよ」と言っているように、
自分にはそう伝わった。
その日はかなりんと話しているうちに終電に乗り損ね、
自分はかなりんからタクシー代を借りつつも、恵比寿から自宅の中野まで歩いた。
近付きたいのに近付く前に自分や相手を値引き、
何か言ってくれればと思っても何もできなくて、
自分を見捨てないと言ったのに遠くへ行くのかと子どもの感情が暴れ、
そしてその激情によって、自分から見捨ててしまう。
そう、最後は相手が眼中どころか自分の心の中にすらいない。
そういった自分の心の葛藤の中で、
見守るという一見暖かさそうでもあり、冷たくもあるその在り方は、
いかに「寄り添う」ということの深さを感じた。
恵比寿から中野の行程はさすがに疲れたけど、熱った思考を冷ますにはちょうどよかった。
砂の坂にいる自分は、自力で上るしかない。
でもそれを見守る誰かはきっと誰かだろうし、
もしかしたら自分自身なのかもしれない。
一個人としてどうすることも、わかることすらできない。
その際たることが、見守ることなんだなと。
これを本当に自分が感じているなら、
これが自分の心の1%でも言葉にできているなら、
砂の坂の上り方も変わるはずだと、サンタが身をもって伝えてくれたように思う。
そんな心模様のつづく今でも砂と重い球に格闘し、
砂が目に入り上りにくい感じです。