毎年、年末年始は両親と過ごしている。
幼少の頃から、正月3が日は連続して家族で親戚の家へ出向き、
10年前からは、大みそかに0泊2日のバスツアーへ参加したり、
元日に病で寝たきりの親戚を見舞ったりしてきた。
ここ数年は次第にそういうこともなくなり、
家を基準で過ごすようになった。
それでも今回は3が日の間に市内の神宮へ初詣へ行ったり、
父の意向で東京へ出たいとのことでスカイツリーを見たり、
おそらく家族で初めてであろうカラオケにも出かけた。
結局は、家でじっとしているのが難しいのだ。
スカイツリー見学では、
父が2年前に食べたマクドナルドのハンバーガーが気に入ったようで、
それをしきりに食べたいと言っていたので昼食にそれを食べ、
満足気に2つたいらげた。
カラオケでは、
母がいつか家族でという気持ちがあったようで、
皆がそれぞれ違う志向の選曲を歌うので「今度それを歌おうかしら」と、
手拍子をしながら楽しんでいた。
私は帰省してまでわざわざ東京へ出かけたり、
両親の散歩に付き合ったりとそんなに出て歩きたくないのだ。
でも「おまえが退屈なんじゃないかと思って」とか「散歩のかわり」と言われては、
外出に付き合うことにしている。
しかし楽しんだ様子を見ていると、私も行ってよかったなと思う。
その背景には、日々の両親の閉塞感を感じることがあるからだ。
どちらかが風呂に入ったり先に寝たりすると、
堰をきったように母なら「父さんったら…」父なら「母さんは…」と、
互いに鼻のつく点や、言われたこと、思ってることを私に話す。
それは今に始まったことではなく、
聞いていると、腹ただしかったり、なんでそんなことを言うのかと
疑問に思ってしまうことが多くあります。
「肝心なことを話し合わない」「何をしたいのか言わない」傾向が強い
二人の関係では、なにか問題があっても、面倒くさいだの逆ギレだの、
顔色を伺って言わなかったりと、起きた問題についてなおざりにするのだ。
こういった話を聞くのは、私にとって耳の痛いことでもある。
話の至る所で、私が取り入れた思考や行動が多いからだ。
また今回は、問題行動かなと思うような出来事もあり、
いよいよ高齢世帯であることを実感することもあった。
そんなときでも、「どうしてほしい」を本人に言わず、ただ行動で示すだけなのだ。
そのせいか非常に疲れるし、妙にイラつくし、現に2度3度怒ってしまった。
でもこういう話を聞き、外出に付き合うからこそ、
なんとなくだが、発想の転換のカギにもなるし、
私の原点に近づくように思うから不思議なものだ。
何より、高齢になりつつある当人同士が自分の足腰で動け、
愚痴でも意思表示ができるうちなら、楽なのかもしれない。
カラオケを終えた帰り道、父はこう言った。
「おまえがもし結婚をしていたら、こんな正月を過ごせなかっただろう」
その言葉を聞き、感謝なのか嫌味なのか微妙な言葉尻を胸に、
こうしていられるうちにという想いがよぎった。