先週末、私は約5年住んだアパートから引越しをした。
隣人とのトラブルに折り合いがつかずにいるところへ、
行政から家賃についてのお達しもあり、
やむなく引越しをすることとなったのだ。
「いいところが見つからない」を理由に、
前のアパートに住み続けることもできた。
住み続けるということは、隣人とのトラブルを抱え、
家賃を気にしながら暮らすことになる。
かたや引越しとなると、事業所に通いながら物件探しをし、
新しく勤めるタイミングからして、好ましい選択ではない。
どちらもストレスにさらされるなら、
長く続かないストレスを選びたかった。
それならば、引越しだ。
物件探しも決まれば終わり、
勤めに出る不安も一週間さえ経てばなんとなるし、
引越し手続きや作業も数日あれば済む。
それでいて、行政指導に応じられる。
そう決めて動いたとはいえ、
早くも手頃な物件が見つからずつまずき気味で、
並行して事業所の訓練や今の勤め先への心の揺れは起き、
半ばくたびれてしまった。
あれこれ動いて、
なんとか以前のアパートから近い今の住まいを見つけた。
手続きや申請のために区役所へ行き来しつつ、
その間に事業所から会社勤務に変えて、
先日の土日を利用して引越しを終えた。
少しでも気を緩めば「やっぱりできない」と、
感じることはわかっていた。
もしかしたらカラダに出てくるかもしれないと、
勘付いていた。
でも、そのことで自ら決めたことがダメになるのは
もうイヤなんだということもわかっていた。
そうならないためにも、あらゆる手段を尽くした。
ラケットと知りつつ業者へ難癖をつけたり、
事業所職員へ泣き言を言ったり。
はたまた、CSNのメンバーに話すことで急場をしのいだり、
引越し当日に両親を呼んで手伝ってもらいながら、
愚痴ってみたり。
自らが選択したことではあるけど、
実に多くの人の存在によって成し遂げられた。
今回だけでなく、今までの出来事ひとつひとつが
そうだったのかもしれない。
課題だったのは、
その選択の結末を私がどう捉えられているかだ。
長く続かないストレスとした引越しを終え、
今は徐々に落ち着きが出てきたように感じる。
私は自分で選択したことなら、
どんな結末でも背負えるのではないかと思った。
何より、やってよかったと少しでも思えれば、
私はそれでいいのだ。