考えるなを越えて考える ①

新年になり、まだ一ヶ月も経たないうちに、
内外共に暴力的行為が目に余る事件が相次いでいる。
今回は自身の経験から、
大阪の高校体罰事件について思うことを記してみたい。
小学4年生の時、担任名は現副総理と同名字。
テストで基準点を満たさなければ、平手打ち。
掃除で掃き残しがあると、平手打ち。
見せしめのように、生徒の前でビシビシ叩いていた。
そして決めゼリフは、
「お前のような奴は、戸塚ヨットスクールへ行ってこい」だった。
この先生が叩く理由は、さっぱりわからなかった。
算数ができなくて、なぜ叩かれるのか。
物を片付けなかっただけで、なぜ叩かれるのか。
「なんで叩くの?」と言えば「口答えするな」。
「すみません」と言えば「お前がやったのか」。
ましてや内気だと、それを表明することもないから、
気持ちだけ萎縮するばかりで、黙ってても叩かれる。
そのことを家で話しても、
「学校の先生なら、よくあることだ」で片づけられていた。
そんな両親も私が言いつけを守らないと、よく叩いた。
「親に向かって、なんてことを言うんだ」
家庭でも学校でも、平手打ちから逃れられる場所はなかった。
私はただ耐えるしかなかった。
今回の事件の中心となる教員は、40代後半。
「喝を入れるために」「他の生徒への見せしめのため」と
厳しすぎるという意見が出ている反面、
「この先生の指導力は高い」という評価や、
卒業生からの嘆願書が出たりと、その慕いぶりもうかがわせた。
今まで体罰に関する事件は起きたものの、
相反する意見がでてきたのは興味深い。
ただ、生徒の死によって結末が出てしまった以上、
慕う側の気持ちは世論によって消されてしまうのか。
ところが最近になり、この事件が起きた高校の内情も明るみに出ている。
生徒の喫煙や飲酒がネットの書き込みによって露呈し、
はたまた現市長を罵倒するような内容もあり、
こうなるとこの高校で先生をやっていくことの重みも感じる。
だからといって、暴力というチカラで風紀を解決するチカラにはならない。
現在、教壇に立つ人の中には、私と同世代も多いはずだ。
その世代が生徒だったとき「叩かれても当然」という記憶と痛みは、
一体どうなっているのだろう。
そして教員になるときは「叩くのは暴力行為だ」
「あんな先生になるまい」と思っていても、
叩かれたことへの記憶と痛みの精査をおざなりにすると、
今回のような事件はまた起きるのではないだろうか。
特に冷静な判断がつかないような場面では
いつ暴発してもおかしくはなかろう。
その言葉は「自分はそうやって教育を受けてきたから」
私の上の世代には、校舎の窓ガラスを割り続けた世代がいる。
下の世代は、学級崩壊や陰湿ないじめが横行した世代がいる。
私の世代は、管理教育の中で押し黙る世代なのだろうか。
もし叩くのがいけないのなら、もし叩いていいのなら、
それを子どもに理解できるように説明できる思考と、
子どもが安心して話せる姿勢で臨むことが必要ではないだろうか。
様相を聞くだにやるせなさを感じるのだが、
どこかで対岸の火事として捉えている私。
当事者ではないで済ますのではなく、
せめて体罰経験があるならその現実と成りゆきを見つめ
私なりに意見を秘めていてもいいだろう。
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