自分はセックスが好きなのか。
そうなんだ。
そうかもしれない。
そうではないのかもしれない。
そんなことはない。
ただ、自分が「あぁ、男なんだ」と思うのが、
ある基準をセックスに求めるところ。
そのある基準とは、、
何かしらの欲求の高まりを感じる時に、セックスがある。
おそらく、大方の男子に見られる傾向じゃないだろうか。
「セックスは暴力だ」 「セックスは、TAで言うところのFC」
振りかえれば、セックスは自分の捌け口でもあり、
逃げ道でもあった。
自分はセックスによって、相手への投影と幻影を見ていた。
セックスを通じて、自分の受入の確認をしていた。
誰でも彼でもいいという訳ではないけど、
セックスに求めていたのは、自分をセックスという行為で
行きずりの自己存在を感じていたから。
一瞬でも、その相手に選ばれた。
一瞬でも、その相手に愛された。
でもそれは、幻影。
行為ができたという達成感はあっても、
行為中は早く終わらせたい、しんどくなるという気持ちが強い。
身体で気持ちいいとか感じることは、ほとんどなかった。
それこそ恋愛上にあるセックスは、
いつ飽きられるか、またいつ自分が飽きるのかの責めぎあい。
かつて付き合った人の中でも、そんなことばかり考え、
本気でセックスしたいと思ったことは、
相手への縛りか、捨てられないための手段でしかなかった。
収拾がつく自我強度があれば、セックスに固執することはなかった。
それでも自分には どうしようもないセックスへの憧憬があり、
どうしようもない自己醜貌の代替のためであり、
どうしようもないいやらしさへの恍惚さがある。
自分のセックス観には相手が存在していない。
求めているのは行為そのものではなく、相手であることもない。
そこには、自己愛しかない無防備な性処理であったこと。
いくら何人とセックスしようが、
いくらわいせつな行為をしようが、
つまるところ、自分が昇天するほどの快感より、
自分の性的関心を満たすだけの行為でしかない。
そのためにどれだけのことをしたのだろうか。
残ったのは、それでも尚相手を求める懲りない性分と、
破滅した身体だけだ。
男は、少なくとも自分は、セックスに泣かされる。
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