迷い薔薇道

最近「心のエネルギー」と、それに関連して「センス」について、自分の在り方を照らすことが多くなった。
心のエネルギーとセンスは意味として全く別物だけど、
ある共通点を持ちつつこの二つの相乗効果は、
時として周りの雰囲気をもかえる、図りしれないものを生むように思う。
その共通点とは、努力やお金では得られない、まさに天の二物のようなものだろう。センスがあるからエネルギーが生き、その逆もしかり。
おそらく自分の支配性からくるだろうこの発想は、どんなシーンでも自分で在りたいからなのだろうか。
センス。
これは主観客観により、見えかたが変わる。あまりに主観にセンスの自負が強いと、
一般性からズレる一人相撲になる。
でも社会に受け入れられれば、それなりのセンスのよさを気取れる。
特に五感をつかった芸術や心理分野についてのセンスは、それが強みになる場合もある。
しかしセンスは、社会評価を基準にすればいやらしいものになる。デザインやライフスタイルなどは、その際たるもので、それほど評価的センスは、とても流動的で社会に左右されやすい。
エネルギーはどうだろう。
自分はこれこそその人たるものの、所以の一部に思う。
おととい、男Nのブログにもエネルギーについて書かれていました。
エネルギーは強弱関係なく誰もが持つ心気で、その存在を知るかどうかは
図れない未知の世界ではなかろうか。
現在の高齢の方にエネルギーの強さを感じる。
それをレポートすることは考えていないが、
形はどうであれ、今の日本をつくりあげた功績は、今の高齢者だ。
物質的に豊かに暮らすこと、
すべてゼロからのスタート、
そして高度経済成長。
日本を経済大国へ押し上げる原動力は、
心の子どもを物質や表現などで癒し、還元させることか、
あるいは心について、度外視せざるをえないほどにがむしゃらだったのだろう。
その時代を生き抜いた力は、物が溢れる現代に生きる自分には、
想像のつかない力がうごめいていたのだろう。
しかしそういった時代にも、現代社会に認識されつつある心の問題はあったはず。
そういうご時世での心のエネルギー不足は、どう扱われてきたのか。
世間体、出世主義…
ドロップアウト、ただ我慢を強いられる。度外視してきたからこそ新たな問題が浮上し、それは少なくとも自分には影響をしている。
今、自分には自分というセンスも感じず、エネルギーが欠けていると感じる。
ただやみくもにセンスやエネルギーが欲しいわけじゃない。もっと忠実に貪欲になりたいというわけでもない。
自分らしさのセンスと、どんなときでも自分で居られるエネルギーを携え、
いつしかの自己肯定につながると信じているからこそ、自分はマイノリティーたるいばらの道を往くのだろう。
blogranking.gif
ブログランキング・にほんブログ村へ

カテゴリー

投稿の月