こころの置き土産

カミングアウトをしてから一年。
振り返ってみると、
当初はカミングアウトをしたことで「生活」というカテゴリーでの対策がすすみ、
それにより全てが解決したように思えた。
でもそうじゃないと気づかされたのは、今年のエンカウンターグループだった。
そうじゃないこと、それはカミングアウトに至るまでの歩みの新たな自己分析と、
カミングアウト以降の行動・思考・感情、例えるなら「こころの置き土産」への取り組みだ。
カミングアウトはカミングウトで恐怖にかられたけど、
それによって浮上した問題の取り組みがこんなにも辛く、厳しく、シビアに感じるとは思わなかった。
先日のニュースで、保護観察中の元教師が再逮捕された。
予測だけど、刑務所で「社会更正」を目的とした日々の中、
元教師が逮捕に至った「小学生を対象にした、残虐な画像のサイトアップ(事件詳細は不明)」
という行為への精神的振り替えりが、元教師の中でどう行われたのだろうか。
このトピックを出したのは様相こそ違えど、
自分のカミングアウトとそれ以降の取り組みに、なにかなぞらえてしまう感じがあるからだ。
それは元教師への弁護ではなく、逮捕して刑をくらって終わりではないということ。
逮捕という区切りにより、自分のした行為の自己分析の必要性を感じずにはいられなかったことだ。
かといって、罪を犯した人の自己分析が功を奏するかといえば、一概には言い切れないはず。
分析を果敢に取り組めば再犯は防げるだろうが、人により「しない」という選択が適切な場合もある。
いずれにせよ人には見たくないもの、感じたくないもの、思い出したくないものはそれぞれにある。
話を戻すと、自分のカミングアウトはあくまで核となる問題を取り出したにすぎず、
肝心なのは取り出した問題を、以降自分の中でどうかたちにしていくか。
ここ最近の自分のブログが、まさにそれを証明しているようだ。
それこそ今でも見たくない、触れたくないものはたくさんあるかもしれない。見られたとしても、重箱の隅にあるかもしれない。
自分は今、どこへ向かっているのかわからない。
過去や現在に怒りや悲しみを感じても、
関係者にこすっからさで接しても、
これまでのいきさつを、演技的裏面で「不幸な自分」を表現してしまうことも、
その先に待っているのは、自分への照り返しだと思うことが、
今精一杯の「できる」感じだ。
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