「褒められたくない」自分

私の中には「褒められたい」のに「褒められたくない」自分がいる。
「感謝している」と言いたいのに「感謝している」と言いたくない自分がいる。
これは、やはり幼き頃の心的外傷に由来する。
日々、コロコロ変容する母の心情に対する自己防衛だった。
この事に気が付いてはいた。しかし、無視していた。
TA講座最終回における「変容の為の行動」を話している時、フッとよぎった息子
の言葉・・『お母さんは「お母さんの作った料理は美味しい」と僕が言ってるのに何で不
愉快そうになるの?』・・。
夫も息子も私の手料理は大好きで、チョコチョコ褒めてくれる。内心は、とても嬉
しく思っているのに「褒めてくれて有難う。」とか「嬉しい」の一言が言えない。
その裏には母の顔が張り付いて見えるからだ。
同じ行動をしても褒めたと思ったら次の瞬間、貶される。人間不信の始まり。
感情表現のストレートな家庭で育った夫は、やはりストレート。
葛藤の中で育った私は、ストレートに表現できない。しかし全くの他人に対しては
恐ろしくガードが甘くなり、瞬時に感情表現してしまう。身近な家族と他人とでは
甘えの度合いが極端に違う。家族には甘えの期待が大きいだけ、葛藤をそのままぶ
つけてしまう。この事は自分の母と同じだと自覚しているから、言葉は発さず、表
情に出てしまう。その結果、料理が美味しいと言われてもムッとした表情になる。
私の中には人を「信じたい自分」がいる。そして、この人は「こんな人だ。」と、
勝手に自己イメージを造り、そのイメージが勝手に自分の中で先走る。
そして、そのイメージが壊れると自分の中で180度転換し「信じれない自分」が出
来上がり、そんな嫌な自分から目を背けたくなる。
人が好きだと近寄って行きながら、接近し過ぎると逃げ出したくなる自分がいる。
勝手に造り出したイメージが壊れて、嫌になってしまう自分の行動を避けたいからだ。
これは人の長所(共感)を見つけるのも早いが、欠点(共感できない)も見つける
のが早い事による。長所、欠点は自分の準拠枠による。
若い頃は、この傾向は顕著だった。少し成長したと、勝手に言いきりたい今、距離を
おいて、客観的に見つめようとしている。
私はドロドロとしたものは見たくない。そして関係性をドロドロには、したくない。
だから関係性が網の目状に繋がり始めると、糸をプツリと切りたくなる。
ドロドロの本当の自分を相手に見せない、自分自身も見ない為に。
家庭において、夫は言葉で関係性を密に繋ぎたがる。
しかし私は、言葉を発するのが億劫。行動を観れば分かるだろうと言いたくなる。
長女は、私達両親の気質を上手く理解できるように見えるが長男は、時々ストレスに
感じている事を言葉で表現する。
時々、自分がそうであった様に子供達に嫌な自分の影響を及ぼしてはいないか不安に
なる事が有る。
TA講座最終回においての決断は「他人の行動に感謝の言葉を一日一回言う」事。
簡単な様だが、もうすでに自分の中で抵抗勢力に押され気味だ。
感謝の言葉を素直に表現する事で、自分の中の葛藤する感情にも目を向ける事を目標
にする。自分の中のドロドロな感情は、実母へのドロドロの感情へと直結する。
無理に蓋をしていたものを少しだけ隙間を開ける事にした。
まだまだ内在する自分の課題は切れ目無く出て来そうだ。
目を背けようとすると連れ戻される。切れそうで切れない繋がり・・CSN。
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