自分の存在意義

今、帰宅した。2週連続の金曜日最終電車。
満員電車の中、様々な人の人間模様を眺めながら、ふと感じる。
大勢の中の一人。今を感じ、今を生きる自分。
今年に入り環境が少しずつ変化しつつあるのを微妙に感じる。
日々の生活における自分の中の意識が大きく変容しようとしているのを客
観的に感じる。
何がどう変わろうとしているのか?どう変われるのかは分からない。
しかし、変わる時期に在るのを感じる。昨年までの焦燥感は全く感じない。
水が流れる様に、自分の生き方を無理に方向付けしないでおこうかと思う。
今までの自分は、目前の出来事に近視眼的に反応して自分の可能性を大きく
潰してきた様に思う。真っすぐな水の流れを無理やり曲げて来た気がする。
ここ1年半位、思うがままに自然と触れたり感情の赴くままに放浪する事で
自分の中で何かが変わった。淀んだり、出口を捜して渦巻いていた激情も、
沈静化し、気が抜けた様にさえ感じる。
拘りが無くなった気がする。
勿論、全ての拘りが無くなった分けでは無い。
しかし、トゲトゲして自分を不自由にしていた「或る拘り」が無くなった気
がする。生き易くなった様に感じる。同時に肩の凝りも無くなった気がする。
数十年の間に無意識に積み上げて来た「或る拘り」を手放す事で、心身共に
軽く成り、その結果その障りの大きかった事に初めて気が付いた。
トゲトゲとした「或る拘り」とは、「自分の存在意義という拘り」だった。
自分の生きて来た道を眺め返してみて、「自分の存在意義に対する拘り」が、
自分を不自由にして来たのではないかという思いに至った。
「自分の存在意義に対する拘り」とは究極的な言い方をすれば、自分という
人間は他人とは違う特別な人間で、優秀で完璧で無ければ存在してはいけな
いという拘りだった・・気が付いていているようで気が付いていなかった。
自分の人生観がこの拘りから出発していた事に先週のCSNの講座の中で気が付
き、ハッとした。エッ!こんな事だったのか!
哲学とか宗教とか、ゴタゴタ悩んで来た事は・・全て自分の存在意義を知りた
かった為と自分意外の人に自分の存在意義、価値を認めて欲しかった為!
何だか言葉にして認識してみると馬鹿馬鹿しく感じて来た。
そんな事に拘って、不自由に生きるよりは駄目人間でも自分は自分と認識を改
める方が楽だと思えて来た。
自分が変わる時期に来ているなら、拘りを手放して、今を生き今を楽しめる生
き方に変わりたい。
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