ここのところ、ロスの獄中でかの三浦和義氏が
自殺したという話題がメディアを賑わしています。
今日の新聞には、会見したロス市警の捜査官の
「特に変わったところは見られなかった」という
発言が載っていました。
凶悪事件を引き起こした犯人に対して、近所の人や
同級生などが「とてもそんなことをするようには思えな
かった」というコメントをしているのよく見かけます。
そうでなくても誰かに対して「とてもそんな風には見え
なかった」という感想を抱くことはままあることですね。
まことに人は見かけだけでは分からない。
しかしそれは見るほうの側にもかなりの原因が
あるのだと思います。人は他人を見るとき
自分の準拠枠から判断していることが多い。
「あの人は大人しいからきっとそんなに大胆な
ことはしない」だとか、「あんなに明るく振舞って
いるのだから悩みなんかないんだろう」とか。
人は誰でも自分のことに大半の意識を向けて
いるので、他の人のことは余り深くは見ようとしない
のが常です。特にそれ程親しくない人や、関心の
ない人のことは、通り一遍の見方をして済ませて
しまう。その方が自分の準拠枠を脅かされずに
いられるからです。
「準拠枠」というのは、交流分析の用語で、
「価値観」という言葉に置き換えてもいいと思いますが、
交流分析でわざわざ「枠」という語を使うのは、
それが「自我」を規定するものだということを
強調したいからだと思います。その人が何に価値が
あると思うかは、行動を大きく左右し、時には
感情までも抑制します。枠に従って行動したり
感じたりする方が、安心していられるからです。
しかし人の心の中には、その「枠」からはみ出して
しまうものが沢山あります。例えば「真面目でなければ
いけない」とか、「物事は達成しなければいけない」とか、
沢山の「~しなければいけない」という枠を持っている人は、
そうしたくない気持ちとか、それに反するような
衝動的な欲求は全て枠の外に押しやってしまいます。
だからこの「枠」の硬い人は、他人のことも自分のことも
その範囲内でしか見ることができません。枠の外に押しやった
ものを見ようとするれば、その枠組みを緩めたり壊したりする
必要があります。それはやはり自分を守っている「枠」を脅かす
行為になってしまうからです。
外側に向ける顔は穏やかでも、内面には非常に激しい
感情の坩堝を隠し持っている人や、表現は乱暴でも
内実はひどく小心で臆病なところがあったりする人は
大勢います。準拠枠の硬い人は、「自分はこうでなければ
ならない」という思いを強固に持っていて、それ以外の
様々な欲望や感情が自分にあることを認められません。
それが「人にもそう見せたい」という願望につながって
いきます。
その人を見る他者も自分の「準拠枠」を持っていて、
それを脅かされたくはないので、それ程関わりの
ない人であればその人の外側の顔を全てだと
思い込もうとします。「あの人は~な人」と規定して、
良くも悪くもそれで済ませてしまえば、楽だからです。
しかし関わりが深くなるとそうもいかなくなります。
「見かけ」の裏にその人が抱えている膨大な「枠外の世界」
を受け入れていく必要が生じます。お互いに枠を少しずつ
修正しながら関係をつくっていかなくてはなりません。
「人間関係」の難しさはここにあります。「そんなことを
してまで人と関係を持ちたくない」という準拠枠を持つ
人は、できるだけ濃密な関係を避けようとします。近年
こういう人は増えつつあるみたいですね。
冒頭の三浦氏の場合も、「こう見せたい自分」という
準拠枠と、その裏にうごめく欲求が激しく相反し、深い
亀裂が埋めきれぬまま、極端な行為に走ってしまった
感じがします。三浦氏は「見かけ」をつくることに余りにも
執着し過ぎて、結局は収拾がつかずに破綻してしまった
のかもしれません。
このトピックスに対しては「へ~!」で済ませてしまえる
私たちも、もしこれが近しい関係の人であればたちまち
自分の精神状況に影響してきます。こんなに極端な事例は
そうないとはしても、自分の周囲の人が、自分の準拠枠を
超えた言動をしたとき、自分がそれをどう受け入れて関係を
保っていくのか、いかないのか、自分の「準拠枠」の検証を
迫られることになります。
人は誰しも「見かけによらない」ところを持っています。
自分にさえ見えていないものも沢山あります。そして
それが人間の厄介なところであり、面白いところでも
あります。こうした人間の一筋縄ではいかない複雑さを
どう捉えるかもまた、その人の「準拠枠」次第ということに
なりますね。
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