「マダム ボヴァリー」の世界

 先週のブログに「何か面白そうな小説を仕入れてこよう」
なんて書いた(こちらです)のですが、本屋に行って買ってきたのは、
結局またもやエッセイの類ばかり。どうも「これ」っていう
小説に巡りあえませんでした。 そこで急遽本棚から
引っ張り出してきたのが、フローベールの「ボヴァリー夫人」。
今「並列読書」の10冊の中に並んでいます。
 この小説を初めて読んだのはいつの日のことだったのか、
もう余り昔のことで覚えていませんが、まだ10代の頃で
あったことは確かです。文庫本の巻頭にかの有名な
「ボヴァリー夫人は私だ」というフローベールの言葉があって、
何故かその言葉に強烈に惹かれて買ったのを覚えています。
 3日くらいかけて一気に読了したのですが、自らの愚かな
選択で破滅に突き進むヒロインと、そのヒロインが自分だと
いう作者の言葉がどうしても結びつかず、しっくりと来ない
気持ちが残りました。
 それが本当に胸に染みるように感じられたのは、
やはり30代になってからです。無性に読み返してみたく
なったのもこの頃でした。10代の頃は「何でこのヒロインは
こんなにつまらない男にばかり惚れるんだろう?」と
疑問だったのですが、恋愛体験を重ねて結婚もし、
自分の思い描く世界と現実とのギャップや、自らの
愚かさ、弱さを痛感してくると、ヒロインの思いや行動に
共感するところが大きくなっていきました。フローベールが
「私だ」と言った真意も腑に落ちた気がしました。
 
 それからは何年か毎に読み返していますが、今回が
何回目になるのかは定かでありません。今あるのは
初めて読んだ時の本ではなく、その後買い換えたもので、
奥付は昭和60年になっています。多分読み返してみたく
なったときに手元になくてもう一度買ったのだと思います。
 因みに何年か前の映画で私が大感動をした(こちら
書いてます)「嫌われ松子の一生」は、この「ボヴァリー夫人」を
下敷きにしていると思われます。監督が「嫌われ松子は
私だ」と言っているのも、きっとフローベールの言葉を意識して
いたんじゃないかな。
 こちらは原作の小説も読んだけれど、断然映画の方が
良かった。「ボヴァリー夫人」の方もかなり前に映画になって
それも観たけど、やはりこれは小説にはかなわなかった。
前者が原作を越えて優れて「映画的世界」を作り上げていた
のに対して、後者は原作をなぞっただけ、という印象が
否めなかったように思います。「古典」のすごさですね。
 文庫本の後書きで訳者の生島遼一氏が述べているように、
「作者は、エマ(ヒロイン)の苦しみのうちに最も深刻な精神的
体験を転置して、人生の根源的な不幸の一つを浮き彫りに
した」のです。氏は「だからこれは単純な女の一生の物語ではなく、
思想の文学なのである」と言っています。何回も読み返すうちに
「ほんと、そうだなあ・・・」という思いが強まりました。
 ここ数日は、仏文学らしい芳醇な文章に酔いながら、
こういう世界にどっぷりと浸りきるのが、久々に味わう
至福のひと時となっています。
 
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