「表に出ないものを引っぱり出して、たたきつけてやりたい。」
映画「ニッポンの嘘」のポスターに掲げられたこのキャプションは、
90歳の反骨写真家、福島菊次郎氏の言葉である。
8月15日の終戦記念日に夫を誘って、スクリーン越しにではあるが、
もう一度福島さんに会いに行ってきた。どうしてもこの日に会いたかった、
否、会わずにはいられなかったのである。
私が生まれたのは終戦直前なので、毎年「戦後××年」の××は
自分の年齢と同じ数である。風化していく戦争の記憶とともに
老いの入り口にさしかかった私の前に、この映画は鮮烈な衝撃をもって
立ち現れた。福島菊次郎という老写真家の存在が、映画を通して
激しく強く我が身を貫いたのである。
二度目の鑑賞で、その衝撃は深く静かに私の身に染み渡った。
夫と行ったのも良かった。戦争をもろに体験した世代からの
強烈なメッセージは、「戦後」という時代を丸ごと生きた
私たちの世代が引き継がねばならない、という切実な思いを
夫にも共有して欲しかったからである。
今回は、一度目に買いそびれた福島さんの著書を購入した。
「写らなかった戦後」3部作のうち、最後に書かれた「殺すな、
殺されるな」である。「福島菊次郎遺言集」と銘打たれた
この本は、彼の写真と同様、まさに迫真の戦後の証言集だ。
非人間的な戦争孤児施設、強制連行され、過酷な労働を強いられた
朝鮮人たちへの凄惨な仕打ち、国策の犠牲になった在韓日本人妻や
中国残留孤児に対する実に不誠実な国家の対応、在日朝鮮人の
孤立無援の凄絶な戦い…などなど、どのエピソードも現場に深く
入り込んで渾身のシャッターを切る写真家の、それはもう
写真家の域を超えた人間としての怒りと吐露に満ち満ちている。
買ってきたその晩のうちに、400頁近くの分厚い本を一気に
読み通してしまった。
「写真家という呼称は、もうこの人には似合わない。いたたまれずに
“現場”から“現場”を渡り歩く人間─それはジャーナリストだ。」
「カメラ毎日」は、福島さんをこう評している。
「僕が天皇や戦争を憎むのは思想領域からではない。」と福島さんは
言う。それは人間扱いされぬ屈辱に耐えて何度も死線を超える
軍隊生活を強いた国家と軍隊への解きがたい不信と怨念、そして
その戦争の生贄にされ続けている弱者を見向きもしない戦後の政治への
激しい憎しみの故だと書く。
まるで見えない手で胸倉をつかまれ、激しく揺さぶられているような
読後の気分は今この時も続いている。中学生で自衛隊の違憲性を考えさせられ、
高校の日本史で「侵略戦争」の一部始終を詳しく教えられ、体制への
反逆心を燃やして過激なデモに駆り立てられた私たちが、いやまぎれもなく
この私が、その体験を自身の内にどう据え直すか。福島さんの存在が
突きつけてくる問いは厳しく鋭い。
「日本人の戦争体験は加害の歴史をいっさい隠蔽し、自己の被害者感だけで
構築された虚構である」という福島さんの言葉は重い。「広島の恥部」を
すべて覆い隠してつくられた平和記念公園、そこに当初は韓国人被爆者の
慰霊碑はなかった。広島市も広島市民もそれを拒んだからである。
「一方的に差別と抑圧があり、無法を法として押しつけ、偏見を無意識の
ところまで定着させておいて、偏見を偏見と思わせないこの状況がある限り、
日本人は人道とか正義とか、平和とかを口にするのはナンセンスだ。」
著書のなかで紹介されている在日韓国人宋斗会の言葉である。彼はその
過激な言動で孤立化し、それでもなお最後まで権力に立ち向かって戦い
続けた孤高の闘争家であった。
全ての過去を隠蔽し、のっぺらぼうになった広島。
それは昨年の3.11を経てなお現在の日本全体の姿である。
今オリンピックやサッカーのワールドカップで無邪気に君が代を歌い、
日の丸を打ち振る若者たちは、戦争にまつわる忌まわしい自国の歴史を
知らない。教科書からはとおに「侵略」の2文字は消え、「南京大虐殺」も
「韓国人従軍慰安婦」もなかったことにされて、「自虐史観」などという
言い方までまかり通る今、「ネトウヨ」と呼ばれる若者たちの台頭が
差別に彩られた稚拙なナショナリズムの席巻を予感させる。
折しも昨日の日経は、大阪の橋下徹市長が自民党の安倍晋三元首相
などとの連携を模索し、新党立ち上げを準備していると報じている。
強力な日の丸君が代信奉者の橋下と憲法改正論者の安倍が手を組めば、
日本が進む道は大方決まっているようなものだ。それでも選挙になれば
かつて小泉が圧勝したように、思考停止した人々はムードに流されて
彼らを選ぶのだろう。自衛隊は晴れて軍隊となり、格差は広がり、
社会保障はじりじりと切り詰められる。生活保護がアメリカのように
有期現物支給になる日も遠くないかもしれない。
私たちは戦わなければならない。
福島さんの言うように、「勝てなくても抵抗して、未来のために
一粒の種でもいいから蒔こうと」しなければならない。
「逃げて再び同じ過ちを繰り返し」てはならない。
生涯を国家権力との戦いに投じた老写真家の存在を賭けた呼びかけに、
私たちも存在を賭けて応えなければならない。
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