先日公開された松井久子監督の映画「何を怖れる」のなかで、
田中美津さんが連合赤軍の永田洋子に会った際のエピソードを
語っている。彼女とは先方から指定された某所の喫茶店で会った。
永田が滔々と語る革命理論には全く関心がなかったが、唯一
興味をもったのが、「次はいつ食べられるか分からないから、
自分たちはレストランで食べ残したときは、必ずポリ袋に
入れて持ち帰る」という話だった。
誘われて丹沢山中のベースキャンプに出かけて行き、彼らの
生活ぶりを見学した。そこには「感じのいい若者たち」や
「おっとりした身重の女性」がいた。それが1971年10月頃の
ことで、その翌年の2月に榛名山荘において一連の事件が起きた。
その後田中さんは「永田洋子は私だ」という原稿を書く。
ベトナム戦争の終焉とともに下火となった反戦運動に抗う
ごとく、より過激な武力闘争を訴えて台頭してきた赤軍派。
彼らは日々喧々諤々の議論を交わし、いっぱしの革命家気取りで
いるが、その陰で女性の活動家を炊事洗濯に追い使っている。
シティーボーイ風に気取った彼らは、間違ってもレストランの
残飯を持ち帰るような格好悪いことはしない。しかしその
カッコよさは、残飯を持ち帰る女のカッコ悪さに支えられて
いることにはとんと無自覚。男と対等に渡りあうには女もまた、
いっぱしの革命家を気取るしかなかった。
永田洋子は、射撃練習をするとき口紅をつけていたという
理由で女性隊員を粛清した。妊婦も殺した。自分たちを赤軍派に
認めさせるためには、食べ物の心配をしたり、子どもを孕んだり
するような「ここにいる女」ではなく、理屈を前面に押し出す
「どこにもいない女」にならなければならない。永田は自分の中の
「ここにいる女」を殺さざるを得なかった。殺したのは永田であり、
殺されたのも永田であった。
「永田自身が色濃く『ここにいる女』であったがゆえに」と、
田中さんは言う。年を聞かれて一才若く答えてしまった自分自身と
重ね合わせながら。「年なんて気にしない毅然とした女として
生きる」のは「どこにもいない女」、髪振り乱して化粧もせず
革命論を振りかざす、そんな「どこにもいない女」を無理して
生きようとして、永田は噴き出した毒にやられた。「リブを生きる
自分に貴重なことを教えてくれた」と、田中さんは振り返っている。
「20歳であることを素晴らしいなんて誰にも言わせやしない」
ポール・ニザンのこの言葉を好んで繰り返しつぶやきながら、
化粧っ気もなくおしゃれもせず、デモに明け暮れた学生時代。
「口紅をつけたバカ女たち、皆殺しにしてやりたい!」
ノートに書きつけた過激な言葉を今でも鮮明に覚えている。
私もまた「永田洋子」だったのだ。
映画には田中さんの他に私と同世代の女たちが続々登場する。
「モナリザスプレー事件」を起こした米津知子さんは、私の
元同僚の友人である。彼女もまた「バリケードのなかでともに
戦う仲間としては、化粧気のないヘルメットの女の子、個人的に
つき合うのは口紅をつけたかわいい女の子」という、男の
二重基準を見せつけられて落胆した、と話している。
米津さんは障害者としてリブの活動を生き、友人もまた
粛々と自分の課題と取組み続けている。彼女曰く「男たちの
運動は途切れてしまったけど、女たちの運動は一度も途切れる
ことはなかった」のだそうである。
映画の中の女たちは皆とてもきれいだ。
しっかりおしゃれもしてお化粧もしている。
それと同時に揺るぎのない自分自身を築き上げてもいる。
きれいに若く見られたい自分を抑圧せずに、外見などに惑わされぬ
毅然とした自分を保つ。女の課題は何と難しいのだろう。しかし
それだからこそ、女たちはこれほどの年月を戦い続けてこられた
のかもしれない。
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