マイホームタウン

 実は一昨日、私はン十回目のバースデイを迎えました。当日には気がつかずに今頃「あゝ、そうだった」と思い出すくらいのものですから、「ハッピーバースディ!」などという気分とはほど遠いのですが、まぁ、「よくぞここまで生きてきた」という意味では感慨深いものもあります。
 森の石松風に言えば(「誰それ?」っていう向きも多いかも…と思いつつかまわず書いちゃいますけど)、「渋谷っ子だってねぇ、コーヒー飲みねぇ」というところ。
 
 聞くところによれば、私が生まれたのは道玄坂上の「恋文横町」の奥にあった「小林病院」という個人病院だそうです。今はもう跡形もありませんが。私は逆子で、当時はどこの病院でも「産むのは無理」と言われたのを、母があちこち訪ね歩いて辿り着いたとのこと。母から事情を聞いた小林先生は、「産めないなんて言ったのはどこのどいつだ!」と烈火のごとく怒り、「必ずここで産ませてやる」と宣言したそうです。というわけで、私の命には、今は亡き(多分)小林先生の並々ならぬ熱情が注ぎ込まれているわけですね。このエピソードは何回も母から聞かされて、いやがおうにも自分の奥深くに刻み込まれているような気がします。
 
 それからというもの、住まいは恵比寿、地元の小学校から渋谷にある私立中学に進み、高校、そして大学までも渋谷に通った私にとっては、渋谷はまさに「庭」みたいなものでした。
 
 あの頃あんなにださかった恵比寿の町も様変わりして、最近一気に「若者の人気スポット」に成り上がり、当時学生の街だった渋谷は、今や「小、中学生の街」になり果てている。世の変遷まことに激しからずや…です。
 
 それでも「遠くにありて偲ぶ故郷」というものがない私にとっては、どんなに変わり果てようとも、渋谷は古里。たまに遠出して「おゝ、自然はいいなぁ」と素朴な感激を胸に帰京しても、車から渋谷の灯が見えると何となくホッとした気分になるのだから不思議なものです。
 
 今は「恋文横町」も渋谷から消え去りました。終戦直後、米兵と恋をした女たちが、帰国してしまった恋人に出すラブレターを英訳するのを生業としていた人達の店が軒を連ねていたところからこの名前がついた、などという由来も知らぬ人の方が多くなっているのでしょうね。それでもあのあたりに行くと、何だかそういう女たちの必死でしたたかな生き様を彷彿とさせるような雰囲気を感じます。そしてそのとっつきにあったという「小林病院」は、そうした女たちの涙やため息も沢山吸い込んでいたのではないか、とそんなことも思います。
 そしてあのあたりに、学生時代一人でよく行った「ライオン」という名曲喫茶がまだ健在です。近いうちにふらっと行ってみましょうか。久々にあのスピーカーに向かって一列に並んでいる客席で、大音響のバッハでも聴きに。

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