ここ数日でニート、フリーターに関する本を立て続けに3冊読みました。一冊は小杉礼子編の「フリーターとニート」、それに今話題の三浦展著「下流社会」、そして最近出たばかりの、本田由紀・内藤朝雄・後藤和智共著「『ニート』って言うな!」です。
「フリーターとニート」は以前読んだのですが、「『ニート』って言うな!」の中で何回も取り上げられているので、もう一度読み直しました。これは労働政策研究・研修機構の研究員である編者が、51人の無業及びフリーターの若者たちに取材をして、その事例を中心に若年層の就労問題を考察した内容となっています。知己とおぼしき事例もあり、興味深く読んだのですが、「『ニート』って言うな!」では、編者の小杉氏やニート論を積極的に展開している玄田有史氏をさして、「ニート」の誤った概念を社会に広める旗手であると批判しています。
本田氏は「フリーターとニート」で小杉氏があげた「ニート」の4類型(①ヤンキー型、②引きこもり型、③立ちすくみ型、④つまずき型)は、「高校教師や就職支援活動をしている人々からの紹介を通してアクセスした少数の調査対象に基づいて作成されて」おり、そのうえ半数以上が何らかの職についているフリーターであることから、「『ニート』の実像をどれほど総合的に捉えているかは疑問」であるとしています。因みに本田氏はいた小杉氏の後輩研究員であるとか。そのせいか大分抑えた書き方になっていますが、後藤氏はイギリスから「ニート」という言葉を輸入した張本人の二人が、その後の「ニートは社会の弊害」といった「誤ったニート論」を黙認あるいは追随するような論調へ変化していることをかなり厳しく糾弾しています。
本田氏は「引きこもり」と「ニート」は別に論じられるべきであると言い、内藤氏は「日本のニートをめぐる論調」は、中高年層が自らの不全感を若者に覆い被せる「投影同一視」のなせる業だと、かなり激しい口調で論旨を展開しています。「若者自立塾」や「育て上げネット」を、「ニート」に対する世論を利用して巧妙に「だめな若者を教育する」という口実でネオ徴兵制を目論む体制側の陰謀に加担するものだと批判し、政府の「自立塾」プロジェクトの立案に「超右派の大物政治家が関わっていた」と暴露的に述べています。そして「若者自立塾」は、まるで軍隊の兵営のような生活をさせる団体をモデルにして運営されているとも言っています。まるで一昔前の「戸塚ヨットスクール」を彷彿とさせるような話ですが、このあたりの真偽は是非確かめてみたいと思いました。
3氏に共通するのは「今のニートという概念は、体制側の就労問題に対する構造的な不備を隠すために意図された誤ったものである」という認識です。こういう論調に触れると、あの日あの時の「左翼的思想」が戻って来て個人的には居心地が悪いのです。特に内藤氏の「投影同一視」論とか「体制陰謀論」とかは刺激的ですね。でもよく読み込んでみると、3氏の論調には微妙に異なったずれがあります。本田氏が「高校や大学での教育をもっと職業に役立つものにするべきだ」と述べているのは、いかにも体制的だし、内藤氏がマルクスを引き合いに出して「教育は阿片だ」と叫んでいるのとは対照的です。片やまだ20代の後藤氏は、両者の温度差には言及せず、専らマスコミに取り上げられた「ニート論」の検証に精を出しているといった印象です。
私はカウンセラーですので、どうしても個別の心理的状況に焦点を当てることが多いのですが、そこからあぶり出されてくる「普遍性」や、「時代状況」はやはり無視できないと感じています。また、年齢的には中高年層に入るので、「現代の豊かさが働かない若者を生み出している一因だ」というのも納得してしまうところがあります。「自活していれば引きこもりたくても引きこもれない」という一人暮らしの若者の声もあります。一方でサンプラザ時代にバブル崩壊後の社会状況のなかで、若者達が劣悪な労働環境に心身ともにすり減らされ、使い捨てられていく事例に憤りを覚たことも数多くありました。「ニート」は「引きこもり」とは違うのだから「困った若者ではない」という論調には違和感を覚えますが、「引きこもり」は特殊な精神障害だというのも違う気がします。
「現状肯定派の若者達が下流社会をつくりつつある」という三浦氏の論旨は面白く読みましたが、果たしてそれも本当なのかという疑問はあります。私の会う若者達は多かれ少なかれ将来に対する「不安感」を抱いています。彼らが口で言うほど「今に満足している」とは思えません。現代の風潮である「自分探し」が「下流の若者達」の特徴としてあげられていますが、そこには必ず「不安」がセットのように張り付いているように思います。「ニート」にしても「引きこもり」にしてもその「不安」からの果てない逃走が引き起こす現象であり、それにいかに直面するかはやはり1人1人の問題なのだという気がします。