大いなる「無意味」との戦い

 男Nの力作「サッカー論」がめでたく終了したところで、私の「サッカー談義」も今日で最後にしたいと思います(多分)。ずっと「人のふんどし」で書いてきた感もあるので、今日はできるだけ自分の思いを綴ってみようかな。
 私が感嘆するのは、サッカーに限らず一流のアスリートたちの肉体と精神が、極限に近い強靱な完璧さを実現していることです。勿論資質もあるでしょうが、常人には真似のできない世界で彼らはそれを磨き上げ、維持しているのだと思います。
 思えば今この時代に100メートルを9秒台で走ったり、一本の棒を支えに6メートルのハードルを跳べたとしても何の意味があるでしょう。ましてや一個のボールを取り合い相手のゴールに入れることそのものに、人間の生活に密着した「理由」も「意味」もありません。スポーツというのは、今や大いなる「無意味」です。その「無意味」を身体と心の極限を賭けて生きることにこそ、スポーツの「意味」はあるのでしょう。
 以前観たつかこうへいの名作「熱海殺人事件―モンテカルロイリュージョン」では、かの木村伝兵衛部長刑事が元オリンピックの棒高跳び代表選手だったという設定になっていて、こんなセリフがありました。「棒高跳びは、昔ローマの奴隷たちがライオンに襲わせるために投げ込まれた城塞の塀を跳び越えて脱出するための命がけの行為から生まれたのだ」。そしてその行為の意味が剥奪された現代になお「ブブカは僅か1センチ高く跳ぶために日夜血を吐くようなトレーニングを続けているのだ」と。
 確固たる「理由」と「意味」が付与された本物の「戦い」があった日本で、その直後に生を受け、半世紀以上を生きて、私は、ただただ生命をつなぐことに懸命だった時代から、急激にその目的や意味が無意味化するプロセスに立ちあってきたような気がすることがあります。私自身もその中に巻き込まれ、もがき、そして今もこの「無意味」を生きるということと闘っているのだという感じがします。
 確かに「意味」はないよりあった方がいいでしょう。「自分の存在はただ偶然で何の意味もない」ということに堪えられるには、かなりの精神力が必要です。どこにも意味が見いだせず悶々としながら、それでもも死なない限り明日は来て、退屈でしんどい日常は果てしなく眼前にあるのです。
 だからといって、いや、だからこそ、そう簡単に「君の存在には意味がある」と言ってもらいたくはないし、言いたくもない、というのが私の中にはあります。「大いなる無意味」を「理由もなく」、しかし「全存在をその一瞬に賭けて」戦うということにこそ、スポーツに生きる選手たちに対する私の感動と投影があります。
 さあ、今夜はブラジル戦。もう早々に寝て4時に起きて観戦しましょうか。かっこいい男たちの「理由なき戦い」を。ねぇ、男N。

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