「子猫殺し」の反響

 先月の18日付け日経夕刊「プロムナード」欄に掲載された坂東眞砂子氏のエッセイ「子猫殺し」が今論議を呼んでいるらしい。タヒチ島に住む彼女は、いろいろと考え悩んだ末「獣の雌にとっての本質的な生を人間の都合で奪い取る」避妊手術を選ばずに、生まれたばかりの子猫を家の隣の崖下に放り投げて殺す、というのである。このエッセイはこんな風に始まっている。
 「こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。そんなことは承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。」
 氏は、この問題に関しては「子種を殺すか、出来た子を殺すかの差」であり、「避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ」と言う。「愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ」から、その神でもない人が「他の生き物の『生』に対してちょっかいを出すのは間違っている」のだと述べ、「人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。生まれた子を殺す権利もない。それでも愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選ぶしかない。」と続けている。そして「私は自分の育ててきた猫の『生』の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。もちろんそれに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。」と結んでいる。
 私も犬を2匹飼っていて、どちらも雄なのだが、彼らに『生』の歓びを与えることはできずにいる。あまりしつけが行き届いていないせいもあり、彼らにとって「都会」というとても最適とは言い難い環境であることもあり、二匹ともストレスをたぎらせているのがわかる。特に若いトイプードル「フータ」の方は、もう一匹の老犬であるミニチュアダックス「サンタ」にあり余ったエネルギーをぶつけ、遂に「性的行為」にまで及ぶようになった。そこで夫と相談して去勢手術を受けさせることにし、それからは幾分ではあるが治まったようである。
 そんな経緯もあったので、氏のエッセイには非常に考えさせられた。ちゃんと切り抜いてスクラップもしてある。我が家の場合もフータの「去勢手術」は全く人間の都合によるものであり、サンタにしても若いときに謳歌したかったであろう「『生』の歓び」は一度も味わわずじまいである。以前犬たちを連れて遊びに行った軽井沢などの避暑地では、犬連れで旅行に来てそのまま捨てていってしまう輩も多いと聞いた。そんな無責任なことはしないまでも、たまたま我が家にやって来た二匹が幸せであるかどうかは甚だ疑問である。
 氏のエッセイには案の定賛否両論の多くの意見が寄せられたらしい。日経でも後日誌面を大きく割いて識者の見解を載せている。「そもそも飼うべきではない」、「現代文明の偽善性を指摘したかったのだろうが、伝える技術に工夫が足りない」、「理解はできるが、納得はできない」など識者の反応も様々だ。その中で長谷川眞理子氏が「(私たちは)現代日本の快適な生活が、実は無数の動物の死に支えられていることに、もっと意識的であるべきだ」と述べていたのが印象に残っている。
 「子猫を殺すなんて、なんて残酷!」と糾弾することは容易い。事実そういう反応が大半だったらしい。しかしそうした人たちも鳥や獣の肉を喰らい、戦争となれば人をも殺す。現代では動物の屠殺現場を見る機会など滅多にないから、人は皆、スーパーに並んでいるきれいなパック入りの肉の背後に、牛や豚を殺している人の存在などを露程にも感じずに済むのである。「食肉とペットの犬猫は違う」と言う向きもあるかも知れないが、やはりそれも動物の側から見れば人間の都合であり勝手な論理であろう。
 私たち人間は骨の髄まで利己的で自分勝手な生き物である。「文明」という巨大なシステムをつくり上げ、その陰で多くの動物たちを意のままに扱ってそれを当然のこととしてきた。そのようにして生き延びてこざるを得なかった人間の歴史というものがあるのならば、せめてそうした自分たちの「偽善的利己心」には意識的でありたい。「子猫殺し」のエッセイは、平和ぼけして何事にも不感症になった人間たちへの痛烈な問題提起であるように思える。
 
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