「生きる意味」第2弾!

 今日はこれから出かける予定もないし、男Nがまだうだうだと寝床の中でとぐろを巻いている間に、先日のブログに引き続き「生きる意味」についてもう少し突っ込んだ考察を試みたいと思います。エヘン!…って、こういうことを言おうとする時って何故か講演口調になるのよね。まぁ「突っ込んだ考察」とかいっても、ヘーゲルやデカルトを論じる気はない(というか論じられない)ので、たいしたことにはならないと思いますが。
 実は最近参考のために受けた心理テストの質問のなかに「あなたは人生に意味があると思いますか」というのがあって、私は「全く思わない」に○をつけたんだけど、「ええ~っ!意味がなければ生きられないじゃん」という声が一緒に受けたメンバーからもあがりました。そのテストは「人間力を測定する」と銘打ったもので、明らかにその質問には「非常にそう思う」と答えたほうが得点が上がるのだろうと思えました。要するに、「人生に意味がある」と思っていること=人間力がある、ということになるらしいんですが、短絡的ってのはまさにこういうことを言うんじゃないでしょうかね。
 「意味」を辞書で引くと、まず第一義は「その言葉のもつ内容」とあります。確かに私たちの使う言葉には全て意味がありますね。しかしそれはその言葉を使う人たちに共通したイメージなので、必ずしも固定されてはいません。言葉とイメージが誤って結びついたり、時がたつにつれて違うイメージを持つようになった言葉は沢山あります。「意味」なんて所詮は抽象的な概念なんだということが、こういうことからも分かりますね。
 その次に「表現や行為の意義・動機」と出ています。この間のブログに書いた「日々の営みの意味」はここに当たりますね。私たちの仕事や活動、遊びや睡眠といった行為や、芸術的な表現や創作にも通常何らかの「意味」があります。即ちそこには必ず「~のため」といった目的や「~したい」という動機が働いているとみなすことが出来ます。かのサルトルは、「人間存在には意味や目的はないのだ」ということを主張する根拠として「人間は道具のように使用目的をもってつくられたものではない」という趣旨のことを言っています。確かに人間が道具をつくるときはそれを何のために使うかを明確に意図していますね。サルトルのように神を否定し、人間を「偶然的な存在」として捉えれば、ここで言う「意味」は雲散霧消してしまいます。
  
 三番目に「表現や行為のもつ価値」というのがあります。「生きる意味」といった場合にはこの「価値」という代物が色濃く係わってくる感じがしますね。そして「価値」というのも概念のなかにしか存在しません。TAで言えば「準拠枠」ですね。何を「価値がある」とみなすかどうかは、その人がどういう準拠枠を持っているかによります。殆どの国民が「お国のために戦う」ことを「価値ある行為」とした時代もありましたね。そういう時代はそれがそのまま「生きる意味」になったりします。今は万人が納得するような「価値」はなかなか見当たりません。そこで「生きる意味」もそれぞれが自前で見つけなくてはならないから、男Nみたいなことになっちゃうんですね。
 
 とこうして見てくると「生きることに意味があるか」なんて質問は、ほんとに意味なく思えてきませんか?ましてやそれが「人間力」に結びつくとは私にはとても思えません。そんなことをふとんの中でぐだぐだ考えてるより、掃除でもして、おいしいものつくって食べた方がよっぽど人間力はつくと思うよ、ねえ男N!
 
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