昨日A子さんが、エンカウンターグループに参加して、メンバーから受け入れられたという体験を書いていました。本人は少々戸惑い気味で、「うれしいっていう気持ちはあるけど、うまく受け入れることが出来ない。」って言っていますが、この体験がしっくりと心の中に納まったときが、A子さんが自分を本当に受け入れるときなのだろうと思います。
「自分はだめだ」と思い続けて来た人は、いくら他の人から「あなたはそのままでOKだよ」と言われても、「そんな筈はない」と思ってしまいます。しかしそういう体験が無駄かというと、決してそんなことはありません。人は自分が他者から受け入れられるという体験を重ねてこそ、自己を受け入れることができるようになるからです。A子さんは貴重な体験を一つ積み重ねたと言えるでしょう。
交流分析理論では、自己否定感というのは幼児期に根ざしているものだと規定されています。子ども時代は誰でも大人に比べて未熟な自分を感じざるを得ませんし、「目標」とか「理想」とかいう名のもとに「あるべき自分像」というのを描いているものです。それは大体、その子どもが「周りの大人たちによって期待されている」と感じる姿をなぞったものです。期待通りにいかなければ「自分はだめだ」という思いを抱き、それが積み重なればその思いはどんどん強化されていってしまします。
どんなに失敗しても、「大丈夫、君はそのままでもOKだよ」と言われて育った子どもがどれだけいるでしょうか。「だめだなぁ」とは言われずとも、「もっと頑張ればできるよ」とか「諦めちゃいけない」とか、そんな言葉を浴びせられることは多々あった筈です。一見励ましに聞こえるこうした言葉のなかに、「頑張らない、あるいは、諦めてしまうお前はだめだ」という「Not OKメッセージ」が含まれており、子どもは敏感にそれを汲み取ってしまいます。
もっとも「励まし」の全てが否定感を生むわけではありません。そういう言葉で奮起して成果を得ることで自己肯定感を育てていく、ということもあります。大切なのはそうした言葉がかけられるときに、その前提として「今の自分の存在がまるごと受け入れられている」という感じを子どもが受け取ることにあります。生育暦のなかで常にこうした感じを持つことなく大人になってしまうと、「人がこんなだめな自分を受け入れる筈がない」という確信を育てていってしまうことになります。
「自己受容」とは、「どんな自分でもOKだ」と感じることができるということです。そしてその土台となるのはやはり「どんなあなたでもOKだよ」と他者から受け入れられる体験にあると言えます。特に子どもの頃にその体験が乏しいと、なかなか土台ができてきません。A子さんのように、他者の受容の言葉が素直に胸に落ちてこないというのは、まだこの土台がしっかりとできていないからでしょう。しかし土台をつくる貴重な要素となったことは確かだと思います。
大人になってしまうと、そうそう無条件に人から受け入れられる体験をすることもありません。大人としてのそれぞれの価値観が重要視される世界に生きざるを得ないからです。防衛や仮面で自分を守りながら外界と渡り合っていくことが要求されます。それ故「自己受容」の土台ができていないまま現実を生きることは、ときにかなりの苦痛を伴います。精神のバランスを崩して立ち直れなくなるようなことさえあります。そこまでいかなくても、「人から認められたい」という欲求ばかりが膨れ上がり、それが膨れ上がるほど自分を繕うことに汲々としてしまって、結局は「誰も認めてくれない」という絶望に苛まれます。
「自分を受け入れるってどうすればいいんですか?」と訊かれることがよくありますが、「自己受容」にノウハウなぞありませんし、その土台が一朝一夕でできよう筈もありません。しかしA子さんのように「利害を越えて他者と関わる」という機会を持つことは、とても有効です。エンカウンターグループなどのグループワークは、大人になって「自己受容」の土台がまだしっかりできていない人のための「土台づくり」の大きな助けとなることと思います。A子さんもきっとこの体験をこれからの「自己受容」のプロセスに生かすことができるでしょう。
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